『恋はもっとそうじゃなくて』第一回:綾川担当分

sonim
『恋はもっとそうじゃなくて』


 橙色に染め上げられた強い光が、窓の端に今は束ねてある薄いクリーム色をした厚手のカーテンすらやすやすと通り抜けるような勢いで、この部屋――四号館にある三〇一へと差し込んでくる。ケンが叩いているPearlのドラムセットも、和田さんが弾いている古ぼけたテレキャスターも、より子さんが爪弾くフェンダーのタバコ色のベースだって、またわたしが持つマイクスタンドや、この部屋に三つ転がっているパイプ椅子だとか、いろんなものが、部屋の中のものがだいたいみんな、そろって橙に染められていた。部屋に入る光は、それらのものや塵埃の舞い漂う軌跡を明々と照らしあげつつも、マイクスタンドやドラムセットやパイプ椅子の金属部からは反射光として跳ね返されてもいるものだから、ふたつは相俟って、まるで部屋中の空間全てに薄皮のような膜を張って満ち満ちていながらも密やかに潜伏している気配の無い侵入者のようでもいて、きらきらと跳ね光る踊り手のようでもあった。これではお互いの顔だって見えにくいので、そろそろ、カーテンを閉めてしまって灯りをつけてもいいんじゃないかなあ、と思っているんだけど、誰もスイッチの方には向かわないし、さきほどから同じ曲をみんなで、繰り返し繰り返し練習していて、たぶんみんな、灯りのことなんてあんまり気にしてないか、面倒がっているだけなのだと思う。なんだかきついなあ。なんだかつらい気がする。わたしはちゃんとやっているのに。いや、みんながちゃんとやってないわけじゃなくて、みんなちゃんとやっているんだと思うけど、でも、早く終わらないかなあ。わたしはそのように、ああ、そんなことを考えていてはダメだ、歌には心を込めないといけないんだから、でもなあ、とふらふら揺れるような気持ちで、歌っていた。


「あー、ああー、あー! なんだよもう、ヤバいよこれ。間に合わねーぞ、っつうかこんなんじゃ駄目なんじゃないの?」
 和田さんが大きな声を出したので、みんなの動きが止まった。わたしは自分の曖昧な歌を見透かされたようで、びくっとしてしまった。でも、和田さんは誰に向かって言ったわけでもなさそうな様子で、うーん、と唸って腕組みをしている。部屋の中が、しん、と静まっていた。確かに、誰のせい、とかではないような気がしていた。みんな、ちゃんとやっていないわけではないのだと思う。ただ、もうひとつ、何か、わからないけど何か微妙な隙間のようなものがあって、そこが足りないのかもしれない、とふと思った。
 中断を機に、ドアの脇にあるスイッチをつけに、のろのろと歩き出した。傍らでは、でもさあ、俺は割と今ぐらいでもいいと思いますよ、なんつーか、細かすぎても逆にノリ出ないんじゃないっすか、なんてケンが和田さんをなだめているけど、和田さんはもちろん納得していない。
「あのなあ、ノリだとかグルーヴ重視とか、そういうのは俺、言い訳だと思うよ。そういうのは、きっちり弾いてから言うもんじゃないか? お前、だいだい、リズムちょっと先走ってんぞ。気付いてる?」
「まじっすか…?すいません、気をつけます…。でもさー和田さん、マジ、細かくやりすぎるのもなんかテンション下がりません? そりゃカチッとやるのは大事だってわかってますけど、この曲、俺らじゃカチカチやんのは厳しすぎるんじゃないっすかね。っつうか、あれっすよ、アレンジ変えませんか?もうちょっとラクで、フィーリングでいけるやつに。その方が俺らにあってるっていうか、ねえ、より子さんはどう思う?」
 と、より子さんに助勢を求めるケンだったけれど、彼女はあっさり、
「和田さんの言うことが正しいと思う」
などと、さらりとしたもので、淡白に言葉を返す。ケンは一瞬、あてが外れて(まあ、いつものことなんだけど)、目をきょとんと見開いた。調子に乗ったときのケンは、アメリカのコミックかなにかにある、ポップな字体で叫び声を上げつつ驚く人間を一瞬思い起こさせるような勢いで、大袈裟におどけ、場の空気を和らげようとするのだが、でも、今回は和田さんの口調が思いのほか強かったので、そんな場合じゃないんだなと気付いたのか、や、はぁ、まあ、と小さく息を吐きながら彼は言葉を濁す。わたしは、といえば、和田さんの言うようにもっときっちりやった方がいいとも思っていたし、でもケンの言うこともわかる、というどっちつかずの考えだったから、黙ってカーテンでも引いておこうと思っていた。
 硝子窓の脇まで、カーテンを引きに、ケンと和田さんのやりとりを聞きながら、歩いていった。外を見れば、もうしばらくすると陽が落ちてしまって暗がりに包まれるであろうキャンパス内に、人はまばらだった。体育会、あるいは体育系サークルの連中――何部だかはよくわからない――が掛け声をあげてぐるぐると走り続けている。それをぼんやりと眺めていると、この部屋の中の出来事が自分には関係のないようなものに思えてきて仕方が無かった。関係がないはずはなくて、むしろ積極的になってしかるべき話題なのに、いやそうではなくて、そうしなくてはいけないのに。わたしは、カーテンの結び目を解こうとした。だけどその時、和田さんに「ソニンはどう思う?どうしたらいいかな? それと歌、ちょっとなんかふらふらしてる気がするよ。もっと楽にやった方が逆にうまくいくかな?」と聞かれて、解こうとした手が止まってしまう。わたしは、うーん、気をつけます、すみません、あ、どっちがいいのかは、ええと、どっちの言い分もわかるんですけど、ただ、しっかりやる方がいいのかもしれませんけど……と誤魔化すしかなかった。んー、そうかー、と和田さんがどことなく平板な抑揚で呟く。我ながらいい加減な答えで、ああ、だめだ、と思った。和田さんとか、みんなの気を悪くしなければいいんだけど。そういうことしか考えられていない自分は今、駄目だと思う。

 バスドラムを軽く、ド、ドンと鳴らした後に、いやー、けどさあ、なんつーかですねー…と、ケンはまだ不服そうにごねる。そんなケンを横目に、より子さんはもう黙って弦を緩めたり締め上げたりして、チューニングを調整していた。カールコードが差し込まれたアンプから低く、ドゥン、ドゥンというより子さんの音が流れる。それを背に、和田さんは、でもな、お前、フィーリングとか、それもいいけど、時間もないしさ、そもそもこれ、俺は思うけど、出来ない話じゃなくない?決めた事をしっかりやるっていうのもすげー大事なんだからさ…とケンを説得している。何か、停滞した感じだった。この感じをどうするのか、しばらく状況は動かないかもしれない。


 差し込んでくるオレンジがかった光に目を細めながら、こんな時、あいつなら、こういう空気を変えられるんだろうなあ、と思ってはっとしてしまった。胸の真ん中あたりが、くっと縮まって、その縮められた分だけ、何か熱くてつんとしたものが押し出され、喉の方に駆け上ってくるような気がした。だけど、わたしはそれを表に出さないようにする。考えない方が、いいことなのだ。
 再び手を動かして、束ねていた結び目を解いて、わたしはカーテンを引いた。カーテンレールを滑らせる時の、さあああっ、という音が響く。その時、その音に被さりながら、
「っていうか…ユウキがいた頃やってた曲とか、やっぱ楽しかったっすよ」
と呟いてしまったのはケンだった。


 ユ、ウ、キ、というその言葉はわずかな音量だったけれど、しかし確実に、三〇一内の空気を固めるのに充分だった。和田さんがちょっと、こわい顔をしている。どうしよう、と思う。わたしだって、わたしが、せっかくわたしが、あいつのことを思い出さないようにしていたのに、なのに、というのに、まったく、ケンは、こいつはなにを言うのだろう。ケンは本当に空気を読まない。天才的に読まない。ケンはすごくいい奴だけれど、こういうところはたまに困る。より子さんが目を半ば伏せつつ、ケンの方を軽く睨んだ。ケンは彼女のこういった、やんわりと非難するような視線にとても弱いし、いろいろな人がケンに向ける視線の中で、何より一番先に気付くのがいつもより子さんからのものだということをわたしは知っている。だからケンはすぐにそれを感じて、あっという顔をして黙りこくった。先ほどわたしによってつけられた白色の蛍光灯から放たれる、じ、じ、という微かな響きが、部屋の中をゆらゆらと泳いでいる。わたしも、より子さんも、ケンも、何かを言おうとはせずに、いや出来ずにいた。この沈滞した気配の殻をやぶるとしたら、和田さんだろうな、とみんなが思っているに違いない。少なくとも、わたしはそう思っている。和田さんは、なんて言うのだろう。みんな、彼の言葉を待つしかなかった。


「楽しいのもいいけどな、それだけじゃマズいんだよ。俺がみんなに厳しく言うのは、何度も言うように、今度が俺、最後だからっていう俺のワガママだとは思うよ。だけど、悪いけど、それはやっぱり協力して欲しいんだよ。俺やっぱしっかりやりたいんだよ。な、お前らもう一回通して練習、いいかな?」






 すでに日が暮れて、夜の黒さがキャンパスを占めていた。わたしたちは灯りがいくつかちらほらと残っている四号館を後にして、駅へと向かう。もうとうに葉が落ちて久しい、寂しげな姿をさらす銀杏たちがずらりと植わった並木道をつらつらみんなで歩いて、次の練習のこと、今度のライブのこと、もうすぐわたしたちを襲ってくるテストのこと、この間買って良かったオススメのCDの話などを、断片的に、曖昧に話ながら、校門から五百メートルほど先の駅へと向かう。
「じゃあ、ソニン、和田さん、またね」
 駅へ着くと、すぐさま、より子さんが右手をひらひらと振りながら、改札の向こうへと消えていった。わたしたちとまだだらだら話そうとしていたケンが、会話を切り上げて、お、ちょっ、待っ、より子さん!とたどたどしく、慌ただしく、後に続く。
「じゃー、また練習で!お疲れっす和田さん! そんじゃね、ソニン!」
と、ずかずかと先へ歩いていったより子さんを追いながら、ケンはホームへと続く階段へと駆けていった。
「ん、じゃあ俺らも行くか」
 和田さんがわたしにそう促す。ええ、とわたしは返して、歩き出した和田さんの後をつかつかとついていった。


 駅の、キャンパスがある方とは反対側の口に、扇状に伸びてゆく四本の道に沿った商店街がある。その一番右にある通りを進むと、有料の駐車場があって、そこに和田さんの車が止めてある。わたしたちの右手には、ホームと合一しているつくりの駅ビルがそびえていて、その下には、置き場でもないのに、そこに来る人たちか、そうではなくても近所の人たちがずらりと並べた自転車が、ビルの切れ目までずうっと続いている。たくさんの自転車を横目に、和田さんと歩いた。わたしたちにあまり、会話はなかった。
 ビルの端まで来ようかという時、そろそろ和田さんの車、中古で買ったというアコードワゴンが止めてある、十五分百円の駐車場がわたしたちの左手に見えてこようかという所まで歩いた頃、
「あいつ…ユウキさ、今ごろ何やってるんだろうな」
と和田さんが口を開き、唐突に話し出した。
「連絡とか、取ってる?」
「いや…特に取ってないんですよ。わたしにも、今何をやっているのかぜんぜん…」
「ん、そうか」
 和田さんの口からユウキという言葉が出ると、わたしはどきりとする。他の誰よりも、和田さんの口からユウキという言葉が洩れ出してくることがわたしの鼓動を早鐘のように早めてしまう。


(続く)