Life is funny, but not ha ha funny, peculiar I guess.

 インターネットでいろんなひとの日記を読んでて、なんとなく、もしかしたらこの人は僕と意見が近いのかもなあ、と思ったり、その近い意見から派生して自分が考えたりする。というのは時折あることですけど、最近もありました。そっからちょこちょこ考えて、こんな文章になっちゃいました、というのが以下の文章です。考える元となった日記とは話がちょっと(だいぶ)ずれているので、これはその方の日記に対する言及というわけでもないのですが。あと僕みたいなのが「近い」とかいうと迷惑かもしれません!
 さて。さて。文章構成力とか何やらが壊滅的な所為もあり、とてもわけわかんない話になってしまいますが、まあ何の話かと言うと、相対的な視点・主義とパワーバランスの話です。

 相対的な視点・主義は「推奨」されるし、僕もそれは「まあ間違っていないのだろう」と思っています。なんらかの絶対的な基準を規定しそれに帰依する、ということは僕には「無理っぽいな」と感じています。それゆえかある種信仰が無くても平気というか、いや、それ自体を信仰していることになるのかなあ? ただそこ、相対的な視点・主義の只中にあっては確かに個人の感情や考えの違いが跳梁跋扈していて、ともすれば強者の支配および正当化の論理がまかり通っているのではないかと、僕は「実感」しています。そういうことは今までにもたくさん僕の身に降りかかってて、そのたびに、ああ、なんだかなあ、って思ってしまうのです。どうしても。
 相対主義の陥穽に陥った時、というか、何が良いのかわからない決められない状態、でもなんか決めなきゃ「いけない」よね、っていう時なんか、強者の論理を押し通しやすいんじゃないかなあ、なんてことも思います。もちろん僕らは何かを「選択」しなきゃどうしようもないんだけど、とりわけ自分の権利(もしくは所有だとか、まあ、自分のモンだ或いは自分の思うようにしたいと思っているもの)に関する選択になると、人はこの強者の論理を利用しようという心が特に働くように見えます。パワーバランスを加味すれば、パワーバランスを他人・相手より上に保てば、欲望を、先付け、後付けだろうとなんだろうといい、正当化「できて」しまう。最悪、それがあたかも絶対的な基準であるかのように。そしてその構造を利用し、他人・相手の口を封じ、論理的・倫理的な理由に反している、そうでなければきもいでもうざいでも理由は突き詰めるとなんでもいいんですが、とにかくお前は間違っていておれは正しいという「状況」が作り出せる、よなあ、って感じています。
 さらに、その状況を作り出すために自分の知識を利用する、そういうのをある意味理論武装というのかもしれませんが、たくさんの、さまざまな知識が、欲望の正当化のためにたくさんの知識を得ているのだとしたら、なんとも哀しい話だなあ、って思うのです。例えば僕が知識を得る時、そういう哀しいことになっていないか、僕は気になります。気になるのは美学的な問題なのかな…。もしかしたら。
 自らを正当化したいという欲望をそれらしく隠蔽しコーティングして語る時の、もっともらしい事を言いながらも仄見える欲望を押し通そうとする時の、僕の(そしてもしかしたらこの文章を読んでいる方々のうちいずれかも、身に憶えがあるかもしれませんね。僕だけの固有の問題ではないだろう、とは思うのです)、そんな時の醜い顔ったらないなって思う。ああ、今も醜い顔なのかも。なんて、美学の側面に問題をちょっとすりかえ気味でもこの問題に関して言ってみたい時はあるのですよね。って、昔からそこそこ見慣れてる、強者の、のほほん然としつつも見下し顔が気にくわないだけかもしれません。ただの僻みかも。
 立場が違えば、僕だって強者の論理をまかり通そうとするかもしれない。したことだってあるだろうし、いや、だろうじゃなくて、あったなだいぶ昔(ちなみに、また反対に、いかにも虐げられた弱者でございという顔で弱者としての正当化を行うこともするかもしれない。それもあっただろうなあ)。
 うわー…。文章まとまんない。というか僕のはひどい文章。えらそう、高見からものを言ってる感満載…。あ、なんというか相対的な見方をしようとするあまりおかしなことになる場合もあるんですけど、さしあたり、人をパワーゲームに巻き込まないようにすること、そしてパワーゲームをプレイしていることに対して自覚、認識するのは大事だよなあ、なんてのが現在の僕の落としどころです。そっから先はどうすんのかな、ってのがすごいありますけど。まだ指針めいたものが、正直言うとない、っぽいです。