好きなミニモニ。の歌は「春夏秋冬だいすっき!」です。だだだだっだー、だいすっきーだー、ってとこのドラムがジミー・チェンバレンみたい(言い過ぎ)。

 僕のミキティ日記(僕のmixi上での日記のことです)にマイミキティマイミクシィ=友達のこと。ミクシィではこう書く)のひとりが書き込んだ話題により、はじめて、ミニモニ。がたいへんらしいZE、ということを先日知ったのですが、僕はミニモニ。及びそのメンバーにさほどの思い入れはなく、「一抹の」寂しさはあれ実際問題としてショックを受けまくることはない(実はそんなにショックでもないのに、ショックです…などと義理立てする必要は恐らくないのだからその辺は正直に言いますが)、逆に言えばこのことについて僕の中で冷静に考えられるのではないか、と思い、こうして日記を書いています。

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●「進化」だとか「次のステップ」だとか、あなた一体なんのことを言ってるの?(←それらしい小見出しその一)
 あー、まずミカの意思ありきという公式発表があるようなのですが、その発表の妥当性・信憑性についてはここでは問題にしないことにします! そんなの検証できないしするべきではないかなあ、と。で、ミカの意思を尊重し、「応援する」、というのと、今から話す僕の話は矛盾せず両立する話だと思ってます。応援するのなら体制に疑問をもってはいけない、“NO”をびたイチ言ってはいけないというわけではないんだし、その逆もしかりでしょうしね。また、そうは言いつつ確実に僕は、熱心に応援などしないでしょう。それも言っておきます。応援しないのなら何も書くな、というのもよくわからない話ですから書きますが! その上で以下長文。

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 さて、いつもこうした…ハロプロの「進化(変化)」なり「卒業」なり「改編」なり、その度の僕の基本的なスタンスとして、「それら変化は最終的に受け入れよう、変化の結果本当に“良く”なるならね」というものがありました。言うなれば、全肯定はしない(できない)、全否定もしない(できない)、というスタンス。そう思っていたしスタンス自体はさほど変化しいていないのですが、今回改めてはっきり認識したことがあります。冷静に考えてみると、“良く”なんてなってないんですよね!びっくりするくらいに! そもそも変化にあたり必要と思われるアフターフォローも出来ていない、良くなったなんて、そんな試しなんてなかったんです(だからといってこれからもない、ということを言っているのではありません)。僕は今、はっきりとそう思っています(こういうことは「辻加護卒業決定」時にも書きましたが…)。
 僕はいつもそれを述べる時、自分の中にある、「変化」のあるべきビジョンを述べていたのかもしれません。ずっと続くものはないのだから、「変化」自体は不可避なものでしょう、世にあるどのような存在・関係性であろうと、同じであり続けることはないでしょう。しかし、問われるのはその変化の詳細・質であるだろう、と僕は思っており、それが満たされるのなら、満たされる見込み・意思発表・計画があるのなら、受け入れましょう、と(しかし結局のところ、今までの変化とやらの結果に僕はまるで満足していませんし、やはりある種の失望や諦念があります)。問題はそこから先の話です。というか、いつも似たようなことを言ってる気がするんですけどね…あ、でも、今回はちょっとだけ違います。

 「変化を受け入れることこそあるべき姿」という様な、なんだか企業論理的な、資本主義に内在する例のアレ的な、そして進化への意思という「変化の正当性」を理由として謳いあげ、これは進化・必然かつ必要な変化だ、という感じである意味「角が立たないようにしたい」ならば、さしあたり変化というその上っ面を達成しさえすればいいという雰囲気がアリアリの謳いあげだけではなく、後の展開があってしかるべきだと思っています。例えば卒業後、はたまた改編後、はたまた活動休止後でもいいけど、そこをぼやかすなよ、っていう。その後の展開は「コストに見合わないからしない」、という企業的な思惑を感じないでもないのですが、まあそれにしたってやっつけ仕事しすぎじゃねえの、っていう。僕は今まったく主観的に言ってるのかもしれませんが、そう思います。

 変化しましたよ、とか、彼女(たち)は明日に向かって羽ばたきましたよ、残された連中もそれによってさらなる高みを目指しますよ、っていううわべのお題目だけがあって、その先の広がりがあまり感じられないのにそれを実情より高らかに言うのは、その実、進化ではないそれの巧妙な隠蔽であることでしょう。というよりも、変化を志すなら、お題目を唱えるなら、そのお題目をわざわざ形骸化させ、うわべのお題目に堕するような方向になんで動いてくの?というのが僕の根本的な疑問です。素人目に見るとですが、それってちょっと近視眼的に過ぎるんでないの?という感じです。経営やらなにやら、諸般の事情とやらがあるのでしょうが、疑問は残りますし、「諸事情」ってのは実は理由にならないんだぜ!(って僕はよく言われてきたから、逆に僕もそれを言えるんじゃないかな、という感じです)

 あと、終わらせるのならちゃんと終わりって言う方がまだしも優しいことだと思いますよ。活動休止とかはぐらかすのじゃなくて。そして新しい、ユニットなりを作るなら作るで、ちゃんと作ってほしい(例として挙げるなら、タンポポとか、タンポポとか、タンポポとかです! …あ、あと、プッチモニ)。

 今まで僕が書いてきたアフターフォローだとかそういった事柄が、出来ないことも多々あるのが世の中であり、または市場原理であり、つまり暗示的に従うべきシステムであり、そこで妙な倫理観持ち出しても仕方ないじゃん文句言う方が馬鹿っぽく見える→文句を言うべきではない、というのは理由として「機能」はしてしまうけど、それは抑圧的*1だよね、という風に思います…。僕が「決定権を実質持つ側」だとか、「あるべき姿」を「強圧的に」押し付けてくる感じのひとたちに言いたいのはだいたいそういうことです。

●意思圧殺装置として機能する、ハロープロジェクトを巡る単線的進化至上主義言説の恐怖(←それらしい小見出しその二)
 或いは僕(ら)は、いつの間にやら支配的になった、進化・変化こそモーニング娘。のイズムであり、ひいてはハロープロジェクトのイズムである、というあの、需要・供給両サイドから何べんも繰り返される題目に抑圧され、若干影響されていた可能性だって否定できません。もちろん、過ぎ去りし過去、それは「黄金の九人時代」でも「ミニモニ。」でも「タンポポ」でもなんでもいいけれど、そこに、そのイメージに拘泥するのは美しい姿ではないのかもしれませんし、進化はかっこいい、ちょうクールとされてるのであって実際まあそうだろうし、目指すべきものではあるのだろうし、それについてゆくのがあるべき姿じゃないか!となるのかもしれません。「進化を目指す」ハロープロジェクトと、それについてゆく「僕ら」。確かにその姿は美しいものであることでしょう。ああ、うん、そりゃそうだと思いますよ。ただし、それら両輪が、きちんと回るならばですけど! で、両輪がうまく回ってないように見えるのなら、それ回ってねえよ、そこが回ってなきゃ「かっこいい車」なんざそもそも走らないんじゃねえの?って、指摘してもいいんじゃないって最近よく思います。

 なんて、まあ思ってることをざっくりと、しかし長文で記すと、以上です。僕はミニモニ。に実際思い入れはほとんどないんですけど、ミニモニ。モーニング娘。に興味を持つ入り口のひとつではあったからなあ、というのもあったでしょうか、気が付くとすんげえうざい長文になってました!

 ところでこの話とは全然関係ないんですけど、最初に活動休止の報を聞いたとき、なぜだか僕の頭に亜都夢先生の『ミニモニ。ラブインストール』、あの鮮烈な衝撃が浮かび、離れませんでした。確かミカが忍者の格好とかしてたような…。いや、何故かハイキックをかましてるんだっけかな…わからない…もうなにもわからない…。

*1:抑圧的って言葉は最近の僕の中でなんだかヒットしています