本当の日記を考える 第1回
“ほんとうの日記”とは何か、ということを考えてみました。その理由は友達を増やしたいからです。ここで理由がまるで繋がらないように見えるのはご愛嬌であって、まあそもそも僕の中では繋がっているのですが、いや実は繋がってもいないのですが(内緒ですよ)、繋がっていないように見えて繋がっていた!ということも世の中には蔓延しているのだから、寛大寛容雨あられの精神、あるいは、何言っているんだこの馬鹿は、という感想でもって僕の愛嬌を理解していただけるとメイビー幸いです。というか、友達増やしたいのは本当なので、その目的のためにしれっとそういった文言を混ぜることによるサブリミナル効果、魂の引き寄せ効果を狙っただけというのが本当のところです。皆様の意識を霊的にコントロールしようとしてごめんなさい…。
本題に入ります。ほんとうの日記とは例えば、漫画「グラップラー刃牙」の登場人物、武神・愚地独歩が、“ほんとうの正拳突き”である“菩薩の拳”を編み出した時の様な状況を思い浮かべれば、自ずとその片鱗も掴めてこようというものではないでしょうか。「グラップラー刃牙」劇中では、武神・独歩ちゃんが、幼少のみぎり、画用紙に「0.999999999999…」と「1」に限りなく近い数字を書き続ければ「1」になると思い、延々と書き続け、それこそ画用紙では収まらない、いくら継ぎ足しても収まらないほど書き続けるものの、それが決して「1」にはならないことを幼少独歩ちゃんは知る、というエピソードが描かれています。そして、その事実を思い出し、本当の正拳に思いを馳せる独歩Chan…。“ほんとうの正拳”を形作ろうと目論んでも、「0.999999999… < 1」という関係性と同様、どのような握り拳を作ってそれを「正拳」だと振るえど、何か違う…“正拳”に届かない…というような状況が発生してしまう。独歩ちゃんはそのことに悩むのです。
これは、僕らが書く“日記”問題への類似性をすぐれて感じさせる逸話ではないでしょうか。そう、僕らがいくら、周囲に馬鹿にされ冷笑されつつ、これは!と思うおもしろ日記を書き続けたとしても、決してそれは“真日記”にならない、ついでに言うと僕らは真人間にもなれない、ということを感じさせるに充分なシーン。このような類推は、ふぞろいな日記はまだ今でも僕らをやるせなく悩ませたりする事実からいっても、注目されうる観点だと思います。
さて、劇中、独歩ちゃんが編み出した“ほんとうの正拳”とは、「赤子がこの世に生れ落ちる時にとっている手の形」でした。握り拳だと、攻撃するという“意”がこもってしまうので、相手に察知されてしまうということなのですが、しかし、独歩ちゃんが気付きを得た「赤子の手」形の拳、菩薩の印相を思わせるその拳こそが最も“自然な正拳”だったのであり、それを繰り出す時、殺意や敵意は霧消しており、相手に察知されることなく最大最強の一撃を叩き込める、というのです。つまり、ここから考えられることは、“オモシロ日記を書く”という“意”を消す行為が本当の日記を呼び込むのではないか?という問題提起です。つまり、僕らが書く一切のオモシロ修辞など、無駄に気合の入るばかりで、しかも恐らくろくでもないものであり(少なくとも僕の書くものはろくでもない)、故に、事実の羅列のみが本当の日記を構成する要素足り得るのかもしれません…ああ、これでほんとうの日記が、僕にも書けるのでしょうか…。
しかし、ここでより注意せねばならないことは、ただオモシロ日記を書く“意”を消すだけではなく、その上で脅威の一撃を加えなくてはならない、ということです。そこが大きな問題であり、それが実現できる可能性について考慮しなくてはならないでしょう。
というわけで、今回はここまで。次回の「本当の日記を考える」は、どうして僕の地元にはろくなメシ屋がないか等について考えたいと思います。飽きた。本当はオモシロ日記がそれほど好きではないのに心にもない適当なこと書いて申し訳ありません。そもそも本当の日記とかないと思います…。あと真人間がどうとかもないです…。でも、ほんと、それはそれとして、日記ってなんやろー…。