すっげー暑い

 馬鹿みたいなんですが、自分の考えをある程度まとめたものをわざわざ記しておこうと思います。今まで自明の事と自分の中で処理していたことを再確認する意味でも…。馬鹿みたい、っていうのも、ともすれば視野狭窄的で、かつ、おれ必死だな的歯ぎしり系かつ目が血走り系の文章をわざわざ書いて載せるからです! でも、それを書いておかないと好きなことや嫌いなことに関して、ひいては「何に関しても」書けない/言えない気がして…って、いや、ばっちり書いてるけど。というか仕事行ってきます。今日は暑いなあ。

●好き?好き?大好き?
 以下メモ書き。
 誰かが好きであるものが「過剰な意味付与」の結果好きなのかどうか、について。そして「好き/嫌い」を評価、価値判断において排除できるかについて。「●●とは▲▲か?」ではなくて、「●●を▲▲だと語るものは“誰”か」と思うことについて。なお、この文章がなんで長いかというと、人と自分は違う、という結果の一言だけを言うと、安易な相対主義っぽい逃げと取られたりする恐れがあるから、それはやだなあ、という自己弁護的理由です。けど、僕の場合書けば書くほどどんどん馬鹿に見えるという諸刃の剣。はてな頭の弱さ出しっていうか…わー。

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 例えばわかりやすいところで……芸術作品を評価(批評)しよう、という時、評しようとするその瞬間、その端から「好き/嫌い」の感情がまとわりついてくる可能性は大いに発生するのではないか?という疑問が僕にはあった。なんというか、言葉を発した瞬間に言葉の可能性にからめ取られる、というようなものに近いイメージだけど、「●●は▲▲の理由で優れている」という表明は、「自分は▲▲という要素が好き」(≒自分は●●が好き)という前提に基づいたものであるかもしれない。そういう考えが拭い去れない。

 それではまずい、ってんで、価値判断において客観性を持たせよう、好き嫌いを排除しよう、となると、じゃあそれを排したなんらかの「基準」となるもの、例えば「質の高低」を基準に判断やら評価をしようね、となるかもしれない。そうすれば価値判断は好き嫌いのからめ手から逃れ、善悪・優劣・是非…を問題に出来ると考えられる…のかもしれない。
 他、恐らく唯一明確に判断できるものとして「数値」があるが、価値判断において数値があんまし関係ねー、であることは、多くの人間が賛同はするのではないか、と僕は思う。でもそれは別にいいか。それは例えば、レコードが百万枚売れたからと言って必ずしも絶対的に素晴らしいというわけではないのだし、百枚しか売れなかったレコードが絶対的に劣っているとも言えないだろう、という理由からだ。となると、判断基準にするなら「質」ではないか?と思うのは妥当かもしれない。善悪と是非に関しては少し問題が違い「質」を基準に出来ないと思うけど、善悪・是非判断においても「基準の定義付け」という点において根本に関わってくる要素は似通っていると思うから、「質」について話を進める。

 しかし、その「質」の根拠を考えると「好き/嫌い」のからめ手が蘇ってくると思う。何故なら「●●は▲▲だから質が高いのである」という時の、基準となる「▲▲」というものの出自は、過去からの「人が快く感じた要素」「人が不快に感じた要素」を「ケースに応じて」最大公約数的にグループ化したものの集積ではないのか。元々、何らかの判断基準が発生した、その原初の開闢的瞬間から「好き/嫌い」という主観が切り離されていたかどうか、というのは結局のところ僕には確認する術がないが、切り離されてはいなかっただろうというのが僕の考え、ある意味「予想」だ。基準の出自からしてそんなもののように思えるのに、さらに気を抜くと「自分は▲▲という要素が好き」という感情が幽霊っぽくつきまとっているのに気付かなかったりする。
 ゆえに、価値判断における客観というものの出自は主観ではなかろうか、というのが僕の「考え」であり「推測」で、それに基づいて僕は、「客観」を用いての価値評価、というものは、本質的に「好き/嫌い」の鎖から離れることが出来ていないのではないか、と思う。
 となると、(何かをただ「好き」「嫌い」というのではなく)たとえ何かを「好き/嫌い」の内実を「客観」をもって「言語化(分析?)」あるいは「批評」したと思った場合でも、それは元々主観あるいは主観のデータベースにアクセス、をしているのに他ならず、いずれにせよ主観である以上、「評価」を「0 < 1」のように一意に定め定義することが出来ないということになるのではないか(さらに言えば、言葉を重ねたところで自分が感じている「好き」の実体にもたどり着かないと僕は思う)。「0 < 1」は「完全に」客観的に判断というか数学上の定義としてあるが、例えば「モーニング娘。ビートルズ」だって証明は出来ない、「不完全な」客観に過ぎないと思う。「モーニング娘。ビートルズ」に賛同者は相当多いだろうし、そしてそれが正に「基準」ではないか、何を馬鹿なことを言っているのだ、とする向きもあるだろう。
 しかし(ここで話が冒頭に戻りループ)。

 そして、僕はどの立場につくかというと、価値判断の際の基準は主観と切り離されていないだろうと思うから、そもそも認識に対する何らかの一般的な理論は存在しないんじゃないの、価値判断はそのような超越っぽい基準/理論に基づくものではないんじゃないのと考える立場だ。
 例えば、これはこの間そういう話があって考えたことだけど、何かを「過剰に意味付与している結果」好きなのだろうという指摘、つまり「Aは●●を基準以上に評価している=Aは●●に過剰な意味を与えているのだ」と決める事には無理がある、と僕は考える。まあ僕も自分がよくわからんものに対しては「あれってそんないいもんじゃないよね、深く捉えすぎだよね」とは考えるけど…でもそもそも過剰というからには何らかの「基準」があるはずで、その「基準」の立脚点が怪しい。その基準は、僕は、前述の通り歴史的な積み重ねを含む主観のデータベースを元に、他者とのパワーバランスの場において選択決定される便宜上のものであると僕はいままで考えていた。だから僕は、自分の基準で「うわーこいつ過剰」って考えることはあっても、滅多に優劣を決定づけるような言い方はしない/できない。で、僕のこの考えはいろいろを経てもどうやら基本的に変わらなかったみたいだ。しかしまあ、これも僕の基準でしかないと思うけれど。
 またそこで問題となるのは、何が過剰か、どこからが過剰か、ではなく、それを過剰と定義して語るものは「誰か」ということじゃないんだろうか。そしてそれは、「過剰」を語る際の問題に限らないと思う(極端に言えば「真理」とか言い換えてもいいと思っている)。
 けれど価値判断に客観「性」を持たせ「ようとする」のはよいだろう。「好き/嫌い」が判断を恣意的に歪ませることだって大いにある。しかし客観は、前述の通り主観の鎖から解き放たれているわけではないと思うので、自分の提示する「客観」が基準「であるかのように」振る舞うのはよくない、というのが僕の結論。
 以上のことは、当然ながら、自分が何かを語る時、全て端から絡んできて自分にも当てはまるんだけれど。

●その上で
 自分の「好き」「嫌い」だとかの感情を誰かに勝手に定義される事は確かにほとんど最大級に嫌なことで、暴力的だとまで思うけど、それぞれがそれぞれの<定義>≒<真理>を抱えている以上それは日常的に不可避であるように思うし、そこから生じる軋轢も不可避的に発生すると思う。そしてそもそも自分の認識すら「好き」「嫌い」の実体には辿り着けない。ってなんだそれ。ではどうしようかなあ。好き/嫌いを勝手に定義されないために、またそして好き/嫌いは語り得ない事だから、沈黙しなくてはならないのか、というと、そうではないと僕は思う。ぼんやりと。
 何故そう思ったか、そこが少しまだ甘いけれど、整理すると、全て沈黙する事になるのは厭だなあっていうかおかしくない?ってのがある。でもこれは、なんでも言って/言われてオッケーで、さらに全て他者の意見を受け容れるべきという話ではない。受け容れるかそうでないかはその先の問題であって、ひとまず受け容れ体制くらい作ろうとしてもいいんじゃない?という話…。いや、まあようするに別に何を好きだと嫌いだと言っても論じてもいいと思うけど、そのかわし、反論がある人に言い返されたりするってことで…。そんでまあ、人は人、我は我、されど仲良し、みたいな、そういうのできればいいんだけど。ぬるいかなあ、こういう考え方。