パッヘルベルのカノン

 池袋の新文芸坐でやってた「庵野秀明ワンマンショー」とかいう明らかにアレなイベントに行ってきました…。まあなんてゆうんでしょうか、今なんか例えば街行く恋人たちとかがこう、寒い夜だからあなたを待ちわびていたりするような2月のすげえ寒い時期じゃないですか、で、そんな時期に『キューティーハニー』『ラブ&ポップ』『REVIVAL OF EVANGELION(DEATH(TRUE)2 Air/まごころを、君に)』を夜間ぶっ通しで劇場鑑賞してきたよー、という、自分は一体何をやっているのだ、何かもうだめかもわからんよね、って感じのサタデーナイトでしたよ。や、おもしろかったですけど!
 まあ、『ラブ&ポップ』を劇場で観ることが出来る日なんてこの先もうそうそうないだろうし、また庵野秀明の顔も拝めるし、という誘惑に負けたのです、僕は。あと、会場には「日記界が誇るハードエヴァオタかつ戦闘的惣流アスカ原理主義エヴァンジェリスト」として知られるFLI-FLAの眞鍋さんがいて笑いました。というかその場にいたのが僕と眞鍋くんだったという事実に笑いました。顔を合わせてお互い苦笑、みたいな…。互いに、お前そんなにエヴァ好きなのな、みたいに思ってたに違いない…。


 この日は、庵野監督のトークショーだとか、キューティーハニーグッズを放出するチャリティーオークション、というのがあって、会場には庵野秀明さんやら樋口真嗣さんが来ていたんですけど、僕はトイレに行った時に出番待ちでぼんやり突っ立っていた庵野さんとすれ違いました。目が合ってしまって、どうしていいかわからなかったので、わ!?という顔をしつつ恋する女学生的にそそくさと僕はトイレに入ってしまったんですけど、「ああ、このメガネのふざけたおっさんに人生狂わされたんだなあ」とか思うとなかなか感慨深かったです。
 それと、オークションでは、司会進行役の声優だかアイドルの卵だかよくわからないちょっとかわいめのお姉さんの慣れない進行ぶりに、ちょくちょく突っ込みをいれつつ、なんとかステージ上の会話に参加しようとし、庵野・樋口両監督のコメントにも声高にレスを返し、商品名がアナウンスされると大袈裟に驚いてみたり……といったとってもナイスなガイたちが会場内にいたんですが、その人たちは結局何も落札しなかったのがおもしろかったです。ぼくはサトエリが着たというOL服がちょっとほしかったよ! それと、帰りのエレベーターの中で、早口のオタクの人が「僕はですねえ、『キューティーハニー』を観て、庵野さんが何を言いたかったかがわかったんですよ!それは難しいことじゃなくて本当にカンタンなことだったんです!それに気付いた時は僕天才かと思いましたよ」というようなことを性急に言い切ってて、気恥ずかしさとラブを感じました。


以下、映画に対する感想とか雑記とか。

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こっちを向いてよサトエリ
キューティーハニー
キューティーハニー
 顔は別にそこまで可愛くないんだけど総合的に妙な可愛さがあって可愛いね部門でコンテストをやれば本邦五指くらいには入るかも、っていうサトエリがにゃーにゃー言ったり擬音を口にして会話するのに軽くMOEつつマクロスのアレである板野サーカス方式でミサイルを避けるのを見て「おー」ってなったり市川実日子かわいいなあとか思ったり及川ミッチーがおもしれーなーなんて思っているうちに愛ってすてきねなんてまあちょっとばかし思ってるうちにすっきり終わる素敵な映画。だってなんだか、だってだってそんな映画なんだもん。多分。

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はるか遠い渋谷で、あの素晴らしい愛をもう一度

ラブ&ポップ
 好きな映画なんだけど、この映画を劇場で観たのは二回目で、そしたら今観た方が「おもしろく」感じて、すごく好きになったかもしれない。以下メモ。

※コメント欄にてご指摘いただいたため、一部文章を改訂しています。
 1997年夏、渋谷では工事が行われていた。映画内で示されていたようにQ-FRONTやマークシティは未だ建っておらず、工事のため迷路のようにさせられた通行路がそこかしこを走っていたりした、ように思っていたけど、今よく考えてみればそれも曖昧だ。映画の登場人物たちはそんな時期の渋谷の街を闊歩しているのだけど、もはやスクリーンを観ている側の僕は「工事後」の世界を生きており、「工事中」の世界を忘れている。スクリーンに映っている工事中の場所が現在の渋谷、あるいは別の場所の「どこ」に相当するのか、ということがほとんどわからなくなっていたし、その工事中の光景は確かに自分の記憶にはあると思っていたのだけれど、しかしどうにも不鮮明だった(そもそも映画で使われている工事現場は渋谷ではないのでは?というご指摘もいただいたが、まあでも渋谷もあったと思う。そして別の場所もあったと思う。僕は最初いっしょくたに「渋谷」と書いてしまった。全てが渋谷であるとは思っていなかったけれど、渋谷とだけ書いて差し支えないくらい渋谷が多いんだろうと思っていた。当初書いたことへの逃げのようだけど、それほど曖昧なのだとも言える)。主人公・裕美が12万8千円のトパーズを欲しいと思った気持ちはいずれ忘れられてゆくように、僕が1997年夏の渋谷を過ごした記憶ももう薄く、すでに遠い。工事中という光景は、移ろいゆくもののその「移ろいゆく」性質を、露わにするような気がしてならない。ひとたび建物が完成すれば、建物のあるその風景は比較的長い間続き記憶に残りやすいけれど、「工事中の風景」は、建物ができるまでの束の間しか存在せず、建物のある風景よりも忘れ去られやすい。そしてさらに、工事以前の過去の風景すら洗い流してしまうのだ。Q-FRONTの前には何があっただろうか。現在渋谷TSUTAYAの横にある、センター街入口に店舗を構えるあの小さな本屋は、それ以前は何の建物だっただろうか?僕にはもう、ほとんど思い出せない。欲しいと思う、留めたいと思う「いま」の気持ちを充足させることに「価値を見出し」日々を過ごす映画内の女の子の心情と、工事中の光景は、今(2005年)観ると、より奇妙にリンクしているような気がする。


 ただ、この映画は、女子高生や援助交際といった「話題の要素」の羅列によって世相を捉えちゃいました的な「いま」をスクリーンに映すことを目的とした映画ではなかったように思う。表層的なリアリティがあるかないかの話ではなかったと思うのだ。まあそもそも「いま」なんて映し得ないというのはともかくとして、だいたい、1996年の「流行語」だった「援助交際」を題材とし、1998年に公開された映画が尚更そのような意味での「いま」である筈もない(原作が村上龍なんだから「いま」である筈がない、という言い方も出来てしまうけど……)。だからこの映画が、「これがいまの若者・女子高生・援助交際の実態なんです。それを示したい」的な、世相を捉えましたよ的な方向性を目指すことを目的としなかったように見える、あるいは見せたのは、しごく正解なんじゃないかなあ、と思う。


 ちなみに、この『ラブ&ポップ』や『エヴァ』劇場版の実写パートにある少しざらついているような感じの画面というのは個人的に好みでもあるんだけど、そういうものも何か、「忘れること/忘れられること」、決定的な「いま」が過ぎ去ることの切なさを感じさせるのに有効な映像だった気がする(まあ個人的にはだけど)。しかし、悲しいという切なさだけではなく、「90年代的」と乱暴に言い切ってしまいたくなる衝動に駆られる数々の自意識・美意識・風景・出来事が庵野秀明によって並べられると、画面内の出来事は過ぎ去ったことであると宣告されるのと同時に、世相の表層をなぞった「いま」ではない「あの頃の『いま』の感覚」が蘇るようでもあり、心地良い切なさも感じた。例えば「いま」を留めたいということ、価値へのこだわり、などなど。まあ、僕がこの映画を観て心地よさを感じ、また映像の面でも、個人視点で移動する映像の多用とか、変なアングルだとかに、いわゆる速弾きギタリストのエゴ的な自慢っぽさを感じることもなく、むしろ当時の空気をよく切り取っているのではないかなんて思うのは、同時代を過ごしたから(というか、庵野作品的なメンタリティの90年代を過ごしたから)というのは大きいかもしれないけれど。


 お前には価値があるってことだよ、ということが「優しい」のか、それを言う人間が優しいのか、あるいはエゴとして機能するのか、それを一概に決めることはできないし、援助交際をする/求める心理の根幹を「価値」の問題として読み解き新たな価値を与えれば解決するというのが妥当かどうか、などは正直微妙だと思うけど、90年代後半にいたかもしれないある女の子が「忘れること/忘れられること」を受容する過程・契機の物語だと僕はこの映画を認識していて、そして好きだ。

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追記:しかしもはや、「援助交際をする女子高生」も、彼女たちに感じていたジレンマ(僕は援助交際を「する」立場では基本的になかったから感じるジレンマと敗北感)も、なぜ?という問いも、今観たり考えたりするとさらに希薄なものだなあと思う。なぜなら、すべてはもう起こりきったことになっているから。それらのものは、下火になったり真新しくなくなってしまったような気がするけど、だけどもう「普通にあって話題にするまでもない」もので、それらがインパクトを保っていた時代の、その後の世界を僕らは生きているから。それは悲しいことでもあるなと思う。例えば池袋でちょうど、しょぼいサラリーマン風のおっさんがちょっと派手目なお嬢さんに声をかけ、少し話した後に無視されていたりしたのを見たりしたんだけど、そういうのが特異な驚くべき光景ではなくなったのはやはり少し「悲しい」。また、その光景とかこの映画を見て、性的競争に翻弄されている人やその奔流の影響下にある人を見るのは悲しいことだなあというか、若い女性が至上の価値を持つ領域における循環と再生産に身を投じる人を見るのは悲しくてこわいことだなあと思う。というか最近また思っている。なんというか、僕は家庭とか家族を構築した先に陥る人も多い問題とか、男がそして女が年を取ることとか、なんかのその周辺の問題を最近よく考えてしまうのです。そういえばミシェル・ウエルベックという人の『素粒子』という小説を近頃読んだんですけど、それもエヴァラブ&ポップを足して割ったような小説でおもしろかったです(話の最後の投げっぱなし具合も似てます)。

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あなたは 「本当に」 人を好きになったことがない、自分しかここにいない、その自分も好きだって感じたことがない、それは憐れなことだ。
REVIVAL OF EVANGELION(DEATH(TRUE)2 Air/まごころを、君に)』
 もうエヴァについて新たに言うことなんて自分にはなさそうだよー、というのが正直なところなんですけど、映像はおもしろいしカタルシスはあるしでいい映画なんだなあ、と思います。「気持ち、いいの?」「庵野殺す!」の部分は、何度見てもやりすぎだと思えてしまい、これは作品としての魅力を損ねているんじゃないかと思ってしまいますけど…。まあでも、やっぱり好意に値するよ。好きってことさ。