Comic Batonコミックバトン

 上記のように今後二度と使いそうもない感じのダウンワードスパイラルかつ思いつきレベルのカテゴリを並べている時点で、なんかもう、海へ行くつもりじゃなかったり、天使なんかじゃなかったり、アニメじゃなかったりエスパーなんかじゃない皆さんにだって執筆者すなわち僕の心理状態とかそういうのが容易に読めちゃいそうですけれど、それもだってしょうがないじゃない?と評判のこの日記ことディスダイアリーなのですが、要するに僕は非常に消耗しており、力足りずに悩んだり、妻には主に僕が悪いせいで不快な思いをさせてしまったり、等などのその結果、まあつまりここでは言えないような様々なことに対して自責の念(特質系)に駆られておりました。そんなわけで、ああもう世界とかライトヒアライトナウで終わればいいんじゃないかな的な感情をちょっとしたアクセサリー感覚で抱えていたのですけれど、いや、いや、世界さんだって生きているしね、あとみんなも終わるセカイの巻き添えとかいやだろうしね、というか僕がもういっちょ頑張るべきなのだしね、なんてポジティブ*1に思い直し、ボクは再び生きる気力を得て、もういちどセカイを開くことにしたのです。ライフイズカミンバック!

 というのが僕の秘められた近況だったりしたのですがそんなセカイ系記述はここまでにして、「FLI-FLA」の眞鍋さんから贈られた「コミックバトン」という名の愛の矢が僕に刺さったよ。そう、現在バトンはブログ海をコミカルに泳ぎ、愛と暴力と死の物語を紡いでいる。まるで数々のバトン日記は、それを渡す者がそれを受け取る者にこう語りかけているかのようだ。すなわち、「私のこと、好き…?」「私とひとつにならない…?」「バトンで繋がること、それはとても気持ちのいいことなのよ」。そう語りかけられ、受け取り答える者は渡す者とひとつになる。そして受け取る者がさらに他者にバトンを渡すと、バトン領域はアメーバ状に拡がる。私たちは私たちではなく、バトンが形成する流動体の一部と化す。つまり、溶け合うバトンが私を壊す。
 そうだ、だから僕はバトンを送らないことにしよう。僕が送らないことで、そこから先の誰かは壊れない。それに、もうバトン日記を書くこともよくないのかもしれない。だってバトン日記を書いていると、そこには僕がいないもの…。ただもう一度、バトンじゃない日記を書きたかったんだ…。

 でも僕がバトンを送らないホントの理由は、違う。僕が送ろうとしても、送られる側の人は――たとえ誰を選んだところでみんな――僕とひとつになどなりたくない、たぶん「でも、アナタとだけはゼッタイにイヤ!」と言われてしまうだろうから…っていう自分で書いてても意味のわからないエヴァンジェリスティックな記述はともかく、ちゃんと答えますね。ごめんなさい。あとこんなこと書いてますが各種バトンはふつうに募集中です!


コミックバトン

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■ 本棚に入ってる漫画単行本の冊数
だいたい実家にあるんですが、家にあるのはせいぜい20冊くらいなんじゃないかなあ。実家には何冊くらいだろうか、わからないけど、100冊くらい?

■ 今面白い漫画
単行本が出たら買っている、というのは松本次郎フリージア』、二ノ宮知子のだめカンタービレ』、くらいです。でも、連載中のもので本当に楽しみにしている漫画は、ないのかもしれない。ここ最近で心の底からおもしろいと思ったのは西岡兄妹『この世の終わりへの旅』と中村明日美子コペルニクスの呼吸』でした。

■ 最後に買った漫画
かわかみじゅんこネオンテトラ
魚喃キリコとかは「上手い」なあって思うんだけど、かわかみじゅんこはどっちかっていうと「すごい」なあって思う。

■ よく読む、または特別な思い入れのある5つの漫画

日渡早紀『僕の地球を守って』
リアルタイムで連載されてたのは僕が小学生とか中学生の頃だったと思うけど、その時は読んでなくて、そのかわり別冊宝島かなんかのオカルト系特集で「前世ごっこにハマる若者」みたいな感じでこの作品が取り上げられていたのを読んだ。そこには、彼彼女らに影響を与えた作品としてこの漫画が紹介されているとともに、「前世は光の戦士プリーシアディキアンミズホです」みた様なことを言ってる若者の記事ばかり載っており、正直「やべーこいつらおもしれー」とか思っていた。ごめんなさい!ナマイキ言っちゃいましたッッ!ごめんなさいッッッ!…だが、高校になってちゃんと読んでみたら見事にハマったのであった、というオチ。

今でも、この作品において日渡早紀が紡ぎだしたセリフの数々は秀逸で、神懸かっていたかも、と思う。日渡早紀のその後の作品に関しては、どっちかっていうと悪い意味で語り得ないものなのでウィトゲンシュタイン先生でなくとも沈黙せざるを得ないともっぱらの風評というか実際僕も読んでるとつらくなるので触れないけど…。
ちなみに、僕の好きなキャラは、地球と一緒の瞳の色を持つ、やさしく美しい木蓮の父さま(ものすごい美男子だけど生活能力がほとんどゼロ)です!あとやっぱ紫苑と、弱々しくもあんがい強い春ちゃんかなー。まあ迅八は昔からさほど好きではないけど、年取るとアイツの性格とかもまあわかるっちゃわかるっていうか玉蘭よりはいい奴じゃね?などと、空気を読まずにオタ話を展開したくなるのがこの漫画。みなさんも、「歌は大気に溶けるんだよ。気持ちは………気持ちはね、光にもなるんだよ。気持ちは歌に、歌は空気に、愛は、光に」というセリフなどにうっとりしたりしなかったりしましょう!


松本次郎『熱帯のシトロン』
エロティクス』だったかで連載されていた時、はじめてこの作品を読んだのだけど、あ、やべー、っつってざわざわした感覚をおぼえたことを記憶している。でも、その時は、エロティクスとか買わねーしなー、って思って話を追うようなことはしなかった。単行本になってだいぶ後にまた読んで、大好きになってしまった。

暴力・性的要素・焦燥感・空虚さ・夢や幻のような感覚が物語全体を貫いているけれど、それが読んでいて嫌味に感じないのはこの作者の才能かなあ、と思う。なぜ嫌な感じがしないのかという理由として、前述の暴力的要素の数々や、作者が好んで打ち出す表層としての60年代的・70年代的なものなどが、恐らくは完全に意図的に、緩急をつけるというか諧謔めいた調子でも使われているということは大きいかもしれない。いかにも「暴力と性を描いてみました!」的な気負いがない距離感が心地よい。その気負いのなさは、「暴力とかちょっと茶化してみました」という手法でもなく、エヴァンゲリオン的な「正面から痛さに取り組んでみました」というものでもなく、両者を踏まえたものと言えるのかもしれない。その距離感自体に異論のある人もいるだろうけど、この距離感こそこの作者の特性なのかな、とか、それかいまの世間の特性なのかな、とも思う。

だけど、それら暴力性や空虚さは、最早乾いたような、麻痺したような、掴み所がないけど当たり前のようにある空気として描かれる中にも、時折、「ここにある」と匂いを放つかのようだ。そしてそういった、どうしようもなく立ち上がる空気≒システムに絡め取られたり、そこから抜け出そうとする意志が描かれる時、カタルシスと言ってよいものが生じる…なんてことを言いたくなる作品です。

ハッピー・マニア (7) (フィールコミックスGOLD)
安野モヨコハッピーマニア
「ふるえるほどのしあわせってどこにあるんだろう これからもそれを探していくのかな」ってセリフはこの漫画の大部分を言い切っちゃってる感があってすごいなあ。あと「ふるえるほどの幸せ」という、あるんだかないんだかわからないものを、タカハシの外部に求め続けたり、安定したと思いきや結局のところ宙吊り状態というのがシゲタ的というか非常に現代的な物語だったなあ、と僕は思う。ループを繰り返しつつ『しあわせ』を追い続けるということ。しかしその『しあわせ』はあらかじめ失われているかもしれない、実体のないのないものかもしれなくて…っていうのはまるで、「山のあなたの空遠く 『幸』住むと人のいう 噫、われひとと尋めゆきて 涙さしぐみかえりきぬ 山のあなたになお遠く 『幸』住むと人のいう」という詩そのものじゃないだろうか。なんというか、すごい徒労。

しかし、かといって、真の幸せを得るには追い求めず周囲に感謝し欲を捨てることからはじまり云々…なんていう、修行僧めいたことはシゲタは考えたくなかったんだろうなと思う。なぜならそういうことを考えるのは「負け」だと思われると怯えているし、彼女自身もまたそう思っているから。そして、仮に「ハッピーエンド」を迎えたとしても、本人は結局のところ満足などしないし、その時点で幸せが「エンドを迎え」終焉してしまうと思ってしまうから、実はそれも「負け」なのだ。それはハッピーマニア的視点では「真のハッピー」ではない。ハッピーマニア的幸福は、山のあなたの遠くの空がはっきり見えたと「感じた」瞬間、幸福を追い求めるループ内の一瞬にしか存在しない。だから『ハッピーマニア』は必然的に「ハッピーエンド」では終わらない。でも、そういう幸せの求め方をしている人は、とても多い。というか、現実的には、それがみんなの前提なんじゃないだろうか。「ハッピーは追い求め続けるしかない」というたったそれだけの前提を、あれだけおもしろく提示したのはやっぱりすごいと思う。

いずれにせよ、ハッピーはいつだって、始まっていないかまだ始まったばかりなのだ。そして、ハッピーとどう向き合うかが、もっとも悩ましい問題だったりするのかなあと思う(作中、シゲタはその周縁をぐるぐる回っていた)。ちなみに、この漫画最大の燃え(not「萌え」)ポイントは、シゲタの瞬発力だと言いたい。あと個人的には、タカハシがだんだんかっこよくなってゆくのが好き。


魚喃キリコ南瓜とマヨネーズ
世界は細やかな奇跡の総体であると僕は昔から思っていたし、たとえば、目の前でにこやかに飲んだり話している人に水をぶっかけてみたりビール瓶で殴ったりしたらどうなるか?とか、今ぼんやり見ているこのテレビにコップを投げつけたらぶっ壊れるかなとか、向こうからやってくる車がハンドルをほんの少し僕のほうに切ったら自分は死ぬのかなとか、そういうことばかり考えていた。

それとは似ているようで違うし、違うようで似ていると思うのだけど、この『南瓜とマヨネーズ』は日常のそこかしこにある奇跡とその愛おしさについて丹念に描き上げている。って、そもそも作者自体、そういうこと(奇跡が云々)を作品内で既に言っているから、いま僕の言ってる事は作品を読めばわかる受け売り的なものなのだけど。ただ、よく、「幸福は簡単に崩れるのだ」とかいって、大仰な惨劇が起こるさまを描く作品も多いけど、そんなドラマティックなことを持ち出さなくとも、「もっと簡単にもっと何気ないことで幸福がなくなったり積み重なったりするよね」なんて佇まいを感じさせるこの作品は、そういうのより沁みる。お互いがお互いを大事にしているなんて出来事は、なんて奇跡的なんだろう。


竹宮恵子地球テラへ…』
マザーコンピュータによる管理体制下に暮らす人類たちと、彼らにより抑圧・迫害される「超能力者」ミュウたちの物語。僕の趣味嗜好の、結構な部分で原点となっているであろう漫画だと思う。小学生の頃に読んで、やられた!と感じた。幼い頃のそうした刺激というものは恐ろしいもので、これはちょっと人格形成に影響を与えているレベルかもしれない。漫画って恐ろしい…。

霧雨の降る遊園地を「大人びた」表情で歩く「大人になれなかった」少年、「檻に入れられた動物にみんな疑問は持たないのだろうか」「動物を檻に入れる事こそがいけないとは誰も教えない 将来社会という檻に入った時“檻”が意識されては困るからだ ジョミー、疑問は持ちたまえ いくつもいくつも、出来るだけ多くの疑問を!」というやり取りだとか、天才に対抗意識を燃やしつつ自分の意志を貫いて一瞬の命のきらめきを見せ散ってゆく秀才くんだとか、「行動するとき人はいつでも心に呵責を負っている ほんの少し圧力を加えれば 人は誰でもその意思を手放す」という言葉とか、「わめくのをやめろ機械!二度とおれの意志にふれるな!」などなどの印象的なセリフやシーンを思い出すたび、高揚感とか寂寥感とかいろいろなものが混ざって僕の中に浮かんでくるのです。

まあ、要するに、僕の好きな要素だけで構成されているような作品ってことなんですけど!

■ バトンを渡す5名
前述の通り僕は、5名なんていう多くの方に向けてひとりひとり、
僕「渡しても、いいの?」
渡される人「………イヤ」
僕「…!!(無言で首を絞める)」
という寸劇を演じたくないので、渡すのをやめておきます…。

※と思ったけど、ひとりだけ…。渡してもいいっていってくれたid:yuearimaさんにバトンを回します!

*1:僕は石川梨華さんの美勇姿にこの言葉の本当の意味を教わりました!