あらためて『銀河鉄道の夜』を読む

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物心ついてから読んだ『銀河鉄道の夜』。文章を読むと、頭の中で作中の情景を、アニメーションで再構築しようと試みてしまう。


もちろんその頭の中の動きの大元は、子供の頃、最初に出会った『銀河鉄道の夜』が、ネコを人間に見立てたアニメーション映画だったからに他ならない。


だから自分の頭の中のジョバンニは、まだ幼さのほうが先に来る印象の少年ではなく少猫だし、カンパネルラはいくらか大人びた見た目の少猫で、ザネリはいじわるそうな見た目の少猫のままになっている。



ある時ふと、このイメージからどれだけ離れて、あらためて『銀河鉄道の夜』を読みうるのだろう、という疑問が湧いてきた。



まずアニメではなく実写で、と想像してみる。ジョバンニとかカンパネルラとか、イタリアっぽい名前だから、だからあれはイタリアの街なんだろうし、登場猫物、いやもとい、登場人物は、イタリア人の少年たち、ということになる。



とすると、古いイタリア映画のようなイメージか、と思ったところで、自分の想像力の限界に突き当たった。そもそも「古いイタリア映画」なんてあまり知らないし、彫りの深い顔立ちのジョバンニやカンパネルラが夢幻のような銀河を進む、という絵は、ひとつの映画としては良さそうな感じがするけど、自らの中のイメージとしてはとても構築しづらいことに気付いたからだ。なにせ自分は日本人だった。



まあ、物語的には、死後の世界へ向かう幻想、ということで、やはり夢で見るような光景を想像するのが妥当ではないか、そして、登場人物は日本人で想像するとしっくりくるのでは、と思って、試しにジョバンニを自分の息子で配役してみて、少し年齢をあげた見た目を想像してみることにしたら、意外にしっくりきたので、その路線でいくことにした。


カンパネルラは、裕福ないいところの息子、ということで、高校の頃の同級生のK君、彼の少年期を想像して配役してみる。これもいい感じに頭の中で再生できそうだ。



できるかぎり、自然さと不思議さをイメージの中に同居させたい。だから、イタリアの街というより、現代の日本のどこか、おそらく東京ではない、少し郊外のような、そんな場所に、銀河鉄道が来る、そんな夢を見ていると仮定して、その夢の中の光景としてイメージすれば、当代の銀河鉄道の夜となってくるのではないか、と思った。



そうなると、タイタニック号の犠牲者と思しき青年と子供たちも、当代の銀河鉄道の夜では、震災をあらわしたものになるのだろうか。そういう想像をすると、なにか生々しさが増して、子供の頃銀河鉄道の夜を読んだ時のように、遠い過去の出来事として虚心で捉えることはむずかしい。昔の読者や、執筆された当時の作者の感覚ではどう捉えたものであったのだろう。



そしてまた、困難に突き当たる。当代の銀河鉄道は、きっと確実に蒸気機関車ではない。なんならリニアとかが来る。たしかに幻想の銀河を疾駆する鉄道は、光速なのかそれ以上のなにかなのか、そういった人智を超える速度で進むものかもしれないけれど、おそらくジョバンニやカンパネルラの魂の旅には、現実の超スピードは似つかわしくない。汽車と呼ばれた頃の列車の速度感、あるいは地方の寂れた区域を進む在来線の、鈍行の、現実の忙しなさと離れたような、旅にふさわしい速度というものがある気がする。




当代の銀河鉄道が、汽車ではなくリニアだとすると、ジョバンニやカンパネルラはだいぶ忙しない旅に出ているのではないか。きっと、座席も古びたものではなく、近未来的なシートのはずだ。



夢幻のような魂の旅。

であるにもかかわらず、妙にあくせくしている。はたしてそのような銀河鉄道で、彼らの魂は、たとえ物語が終わろうとも消化不良気味になってしまうのではないか。



銀河鉄道の夜』をあらためて読もうと試みたら、そんな余計なお世話感が否めないイメージを拭えなくなってしまった。




しかしこれは、昔の列車の記憶がまだなくはない自分が読んだ際の話で、その感じを憶えているから比較してしまうのであって、最初から汽車を知らない今の子供はどういうイメージをもつのだろう。



機会があれば聞いてみようと思う。なんなら、カンパネルラは米津玄師のイメージかもしれない。





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という文章を今日、夢の中で組み立てていたので、記録として残してみます。なにかの本についてなにか書け、といった国語の宿題を当日までやっておらず、というかそんな宿題があることを知らず、あと30分とかで書かなきゃいけない、という感じの追われてる夢でした。上の文章は、なんの本を題材にしようかと焦るなか、銀河鉄道の夜ならなにか書けるのでは?と捻り出して、夢の中で考えた文章の、わりとほぼそのままです。