政治とか社会問題がらみの音楽って鳴らしちゃいけないの?鳴らすべきなの?

 アドルノさんの『不協和音』をようやく大体読み終わったのですが、僕なりに考えたことをまとめてみます。特に音楽の物神的性格や「操られた音楽」、楽師音楽批判のくだりが特におもしろかったです。こう、彼の意見は矛盾、というより両面的であるように感じられる箇所もある、という気もして「むー」という部分もあったのですが、それも含めて面白い本でした。あと文章が難しく、そのうえ音楽的知識が乏しいのに僕は読んでたので、難しかった…。あと、読み返そうと思って探したら『不協和音』が見あたりません! 我が家の、本やCDが散乱するカオスの中に消えた…?やべー超気になる。というかなんとか探して見つけたい。

■考えたこといくつか■
アドルノは『不協和音』にて楽師音楽(ドイツにおける「青年音楽」「歌唱運動」など)を批判した。音楽とは(人間がそうであるように?)絶えず超越してゆくことが望まれるが、楽師音楽は、「商品化」(など?)へのカウンターとして、状況を自分たちの下へ取り戻そうとする目的を持つ連中の過去至上・過去回帰キャンペーンなのであり、自分たちの目的を体現するために都合のいい「音楽」に「しがみついたもの」だと批判。なお、「商品化」などに対しては、第一章「音楽における物神的性格と聴取の退化」にてアドルノ自身も警鐘を鳴らしていた。

 アドルノは楽師音楽を、音楽を過去への憧憬と結びつけ「利用する」という潮流であり、結局のところ、過去を美しいものとして定義し、それに従わせようとすることは音楽、ひいては人間を退化させようとする抑圧的な潮流と捉え批判している、のだろうと僕は思った。音楽に「別の目的」を付与し、音を聴かせるのではなく、別のものを聴かせようとする、そのような身振りには僕も違和感、若干の嫌悪感をおぼえることが多い。ちなみに『不協和音』第二章「操られた音楽」でアドルノは、ソ連や東欧の共産主義体制下での音楽に対する拘束を批判している。
 それら批判は概ね妥当だと僕は感じた。しかし、例えば政治・社会問題について語っているする音楽はすべて好ましくないのだろうか? あるいは、憂慮する状況がある時、語らない音楽は好ましくないのだろうか? 語る/語らない、両方の側を推測して、なんとか考えてみたい。

■主張そのいち(語らない側):政治・社会にコミットする音楽はよくない■
●「音楽」から外れる、別の意図のために音楽を使うなんて! 音楽の本来性から外れる上に、音楽の力によりよくわからないままおかしな思想が拡がってゆく危険性があるじゃないか。政治や社会の話が持ち込まれると、聴き手は抑圧されるのではないか。

 例えば、音楽を「純粋に」聴くのっていいよね的態度を取るレビュー原稿などで主張されることが多いこのような論調。また、音楽をプロパガンダ的に用いていると思われるケースは勿論、バンド・エイドUSAフォー・アフリカ的な「音楽を用いた政治・社会問題に対する語りかけ」に対する反駁としてこの論調が採用されることも結構ある、と思う。例えば音楽の力に流され、内容の妥当性がよくわからないまま反戦・平和ムードに流されてるだけじゃないか…というような。僕もどちらかと言えばこちら寄りの考えだ。だが、よくない、とは「どの程度」よくないものなのか。

 例えば愛を歌うことは「許されて」、政治や社会問題を歌うことは「許されない」ことなのか。愛と政治は違う次元の話であり、それは問題にはならない、そのような問いかけは問題にしてはいけないことなのか、或いは、稚拙な愛の歌の方が稚拙な政治の歌よりも「実害」が少ないからOKということか。
 そもそも「音楽の本来性」「音楽それ自体」という問いかけは成立するのか。語ること自体を禁じるのはおかしいことではないのか。それは新たな抑圧に他ならないのではないのか。この音楽は政治・社会に対するその主張が「おかしく」「駄目な」音楽であるというような聴き手の判断の結果淘汰される、受け入れてはならないものとされるのは良いと思うが、あらかじめ禁止・忌避抑制すべきというならそれはおかしいのではないか。
 仮に、危険性を理由に政治・社会問題を語る音楽をあらかじめ禁止ないし忌避抑制すべきという主張を持っている人がいたなら、「正しく(自分の思想に沿う)」政治色を帯びた、まさに禁止するその当人にとって好ましい(好ましい人間がやっている、好ましいメロディである、好ましいメッセージであるなどの諸条件をクリアする)音楽と対峙した時、どのような態度を取るのだろうか? その音楽に「例外処理」を施し、これだけは別物であるとして受け入れるのだろうか。或いは、自らの態度に殉じ、その音楽をすっかり否定するだろうか。或いは、音楽自体はいいが政治的な語りかけがあるから総体として駄目だと否定するのだろうか。そして、そもそも、このような仮定自体が意味の無いことだろうか。
 また、音楽の力に流される、判断を狂わされる危険性があるので駄目という理由は、当該要素のあると思われる音楽の発信をあらかじめ忌避抑制するべき、特に究極的には禁止するべきと考えるレベルまで行ってしまうのなら、聴き手/受け取り側の「音楽に対する判断力」というものを軽視している、もっと言えば、舐めてやしないだろうか、と思う。あいつらは頭が悪いからこんな音楽を聴かせては駄目だ、取り込まれるに決まってる、と最初から決め付けられているように感じる。僕はそれを、おかしいと思う(※)。

※だがそれは、危険に既に取り込まれてからでは遅い、と考えるから忌避抑制・禁止という結論にたどり着くのかもしれない。つまり、何か良くない状況が起こりうる→ではあらかじめ種を刈り取ろう、可能性を潰そう、という考え方もある。例えば、明白な犯罪行為(とされているもの)はあらかじめ禁止するべきことに僕は賛同もするし、その必要があると認めるだろうと思う。しかし音楽に関してそれを適用してよいのか? 音楽は犯罪と違う、と言う事は容易に出来るが、良いなら、何故良いのか、それを想像することが今の僕には出来ない。

 あらかじめ忌避・抑制されるべき音楽(ひいては芸術全般)などあるのだろうか?

■主張そのに(語る側):ノン・ポリティカルはクソだ。お前らは何も考えていないのか■
●政治や社会の悲惨な状況を目にしながら語らないのはおかしい。音楽で語る、支援することが出来るなら、するべきだ

 こちらはどちらかと言えば普段あまり個人的に賛同できない。音楽に政治や社会を語る「義務」はない(と思う)。戦争が起こっていたとしても、パーティーの歌を歌っていいと思う。それ自体を制限されるのはおかしな気がする。が、例えば葬式の席上でいきなり漫談を展開されたとすれば不機嫌になる人は多い(これは僕も不機嫌になるだろう)ように(遺族であれば尚更だ)、憂慮する状況下における「脳天気」な行為が人をいらつかせるということもあるだろう。葬式におけるそれは「道徳的」な理由から咎められることが多く、むしろ咎めることが推奨されている、と感じる。が、一体どこが境界線なのだろうか。個人から集団へと、「場」が大きくなれば、その境界は曖昧になってくるように思う。
 数年前、ジュビリー2000という「最貧国の支払い不可能な債務を帳消ししよう」というキャンペーンがあった(現在は名前を変更し、継続中のようだ)。これには、U2のボノやレディオヘッドトム・ヨークなどはその活動を支援することを表明し…この活動を知った僕は当時、正直に言うと、迷った。なんとなく賛同できそうな気はする、しかし、債務帳消しで本当にうまくいくのかその構造がわからない上に(わからない、判断できないのはまず、知識や考えが浅いからだと思う。なお今でも判断できる自信はない)、例えば以下に引用するような物言いに僕は違和感を憶え、はっきり言えば当時、判断を停止したことになる。

アパルトヘイトを行なっていた頃の南アフリカに「私はノン・ポリティカル(政治には関知しない)なんだ」と言って、平然とアパルトヘイトを推奨する政治家の招待で演奏を行なっていたミュージシャン達に対して、その頃心あるロッカーやラッパーと共にアパルトヘイト廃止運動を精力的に行なっていたボノの言葉だったと思います。

「ノン・ポリティカルであることこそ、最悪のポリティカル(政治的)問題だ」
(http://aromazzi.hp.infoseek.co.jp/20000430.htmlより一部引用)

これはもっともらしいことを言っているように見える。今こそ行動しよう、行動しなきゃおかしい、行動するべきだ、というような誘いかけは、重たく僕にのしかかる。音楽を用いる、ミュージシャンが賛同する、という状況が付加されると、いっそうの混乱をきたす。僕は判断を停止した。停止した自分が非難されているかのようにも心の中で少し思った。何せ、僕は何もしていない。考えたかもしれないが、何も表には出していない。抑圧されているようにも感じたし、行動派の「肯定しなきゃおかしいでしょ」的空気(この空気は僕が勝手に感じているものではある)に違和感を憶えた。それから考えれば、音楽はただの音楽、音楽家はただの音楽家に留まっていてくれた方が望ましいのかもしれない。そのような気分にはなる。
 しかし、このような音楽ないし音楽家による主張を止める「義務」もまた、ないだろうと思う。音楽や彼らがポリティカルであること自体が止められるべき、問題になるべきなのではなく、その手法、そして内容こそが問題となるはずではないのか。判断の保留が責められるべきかどうかは僕にはまだよくわからない、責められたらどうしよう、責められるのはおかしい、と感じるのはあるが、しかし、だからといって考える可能性を消すことには相当な抵抗感がある