ハイ、ロマーレ!

最近触れたものとか買ったもの
●音楽
Franz Ferdinand / Franz Ferdinand
 色々なところでよく見かけるので買ってみたのだけど、このグラスゴー発のバンドは久々に、例えばロッキング・オン的ハイプ運動に乗ってもいいカナ…?と思うくらい良かった。ロッキング・オンの名前を出す必要はないし、あの雑誌が推すバンドの全てがハイプなわけではないけれど、というか、ハイプかどうか?なんて判断は個々人の感情にものすごく左右されると思うので、そんな話は長々とすることもないだろうなあ。なので止める。
 彼等のどこか前のめりなリズム隊に絡むカッティング多様のギター音や歌は、聴き手の身体的な動作の快楽をすぐれて誘発する類のものであり、僕が音楽に求める、あるベクトルへの抗い難い奔流を感じさせてくれる故にとても気に入った。ただ、ストロークスとか好きならピンと来るはず!みたいなキャッチがHMVでは書いてあったが、僕はそれと若干というかかなり違う印象で、まあだいたい極めて表層的な次元で言えば英国的陰影の感覚が音に多分に込められているように思うのと、前出のストロークス等には薄いように思うニューウェーブ的音像の存在を感じたのだけど、ただ、ストロークス云々が取りざたされるのは、ここ2004年においては音楽性の相違が割とはっきりしているFranz Ferdinandストロークス等から始まったと“される”「ロックンロールの復権!」的潮流の一部に含むことも可能とされているということなのかもしれないな、と思った。という推測(無理やり)に立てば、どちらも素晴らしいロックンロールなのだから一緒にしていいではないか、ロックンロール万歳、ということも言えるのかもしれないが、いずれかのバンドが素晴らしいロックンロールというその物言い自体に特別反論はないものの、ただ、素晴らしいロックンロールと言いたいのだったら、それこそストロークス云々は関係ないのではないか?とも思う。
 なんてことを言うのは、一緒くたにするその手口に「ストロークスを買ったアナタ、次はこれですよ!」といった作為的なものを感じてしまったからなのであり、わざわざ一緒くたにして欲しくないなあ、という思いからなのだけど。いや、これは久々に、最近出てきたバンドの中で「買ってよかった」と思ったアルバムだった。

Fanfare Ciocaria / Baro Biao
 その出自はルーマニアの小村、世界最速ロマ・ブラス・バンド、Fanfare Ciocariaの2ndアルバム。最速かどうかは知らないけど、まあそんなことはよくて、これは正に自分に襲い掛かる音の奔流という感じでかっこいい! 音楽の力の一つに、それを聴くことで現実や想像上の光景や関連する記憶の断片とリンクし、あまつさえそれを変容させるような感覚を聴き手にもたらすことが挙げられると思う。しかし音楽は、聴取時に特定の映像を喚起してしまう場合、特に特定の「映像作品」の中に「封入」されてしまった場合など、音楽がもたらす特に視覚上の空想的な可能性の制限がおぼろげに、しかし強制的に与えられる、という性質もあるように思う。それが問題になる時もあればあまりそうはならない場合もあると思うのだが、そしてFanfare Ciocariaのようなロマバンドの場合は大人数のロマたちが演奏しているシーンがまず像として与えられる可能性が高いものの、それが音楽を享受する快楽を制限するような可能性は低いのではないだろうか。
 あとこれは余談だけど音楽を享受する快楽といえば、映像やら記憶やらを音楽が色々想起させたり、このバンドの姿勢はかっこいいなあと思ったり、そういうのでああこれはいい音楽だ、なんて思うことはよくあるけれど、ただそういう時、僕は一体「何を」聴いているのかと思うこともたまにある。それは言い換えると、僕は「音楽を聴く」快楽を得ているのか、聴くことから別種の快楽を得ているのかわからなくなる時がある、ということだけど、ただそういう考えが出てくる恐らくの根っこ、音楽それ自体というものが存在するという考えは、何か幻想的な感じはする。個人的には、全部ひっくるめて音楽じゃん?という立場がいちばんしっくりするのだけれど、それがどうなのかとか、「で、全部って何よ?」という話になるとわからないとしか言い様がない。
 話を戻して…しかしロマ文化はうっとりするなあ。来日公演行きたい。ついでにFanfare Ciocariaが出る映画もやるのでそれも観に行きたい。レイトショーなんだけど、会社早く終われば行けるかも。その時間までに仕事が終わるのかというのが大問題だけど…。あー、東欧行きたいなー。政情不安地域でなければ旧ユーゴとか一番行ってみたいんだけれど、実際に行ったら別段観るところもないのかもしれない…とも思え、微妙なところ。言葉もあからさまにわからないだろうし。ちなみに自分の行きたい国ランキングを記載すると、旧ユーゴ>>イギリス>東欧全般>ロシア>西欧全般(越えられない壁)>それ以外、といった感じです。いやまあ、なんとなくな結果でしかないけれど。

 なお、映画の公式サイトURLはhttp://www.plankton.co.jp/brassonfire/。タイトルが若干、見る気を減少させるもののような気がするけど、まあいいです!

The Muffs / Really Really Happy
 ポップなメロディ+ディストーションギター+投げやりな歌声+確信の強いメッセージ=ロックやなぁ! という式を提示したい感じ。

●映像
モトリー・クルーの超過激☆暴走生活』
 カテゴリは「映画」にしたのだけれどこれは映画ではない。しかしこのタイトルの強烈さ…!冗談でもなんでもなく実際にあるタイトルなのだからビックリすると同時に陽性・陰性含めたニヤニヤとした感情が込み上げる。80年代〜90年代初頭、ハードロック/ヘヴィメタル(以下HR/HMと表記)全盛期の只中、所謂L.A.メタルの旗手としてシーンを煌びやかに飾ったり“Hair Metal”と揶揄されたりしたバンド、モトリー・クルーのPV集だ。タイトルから類推されるようにただのPV集ではなく、プレスのアポイントメントを平気ですっ飛ばす「ロックスター様」ぶりや、ブロンド、ブルネット、なんでもござれといったゴージャスでセクシーな女性を多数侍らす“破天荒さ”を見せつけるロックスター様ぶりのアピールがギラリと眩しい、まさしくモトリー・クルーの超過激☆な暴走生活の紹介、という演出もなされているのであるが、これがまた寸分の違いも無く期待を裏切らない出来なので快哉をあげたくなる。例えば、小型のプールが備え付けられたリムジンに女性をたくさん乗り込ませシャンパンをあおる、あるいは、ヴォーカルのヴィンス・ニール宅をインタビュアーが訪れるのだが、ベルを鳴らしてもヴィンスは出てこず、もう一度ベルを鳴らしたところ寝ぼけた目をこすりながらやっと出てきたのはあからさまに性行為後を想起させるはだけた姿の若い女性たちなのであり、その後ろから笑みを浮かべたヴィンス・ニールが「オイオイ、邪魔しないでくれよ?」といわんばかりの、今にも「HAHAHA!」という吹きだしが画面上にあらわれんばかりの笑顔で現れるシーン(しかしこれはもちろんそういう「シナリオ」だ)など、これ以上の「らしい」シーンは無いものが巧妙に、はっきりと意図的に配置されている具合なのだ。

 この年代のHR/HMは特に、ムーブメントとしてのそれが去った以降、オアシスあたりが体現していたとされる英国労働者階級的ラッディズムとも若干異なり、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」の戯画化、マチズモ的価値観の滑稽な側面を表出させる装置としても機能するのであるが、HR/HMの音楽・アティテュードとしての恐ろしさや威力は、(一般化は出来ないが)そのような或る「男性性」や言わば「厨房性」を振り切れない部分に訴えかけてくる点にもあるように思う。例えば、多くのHR/HMは(最早メッセージが戯画化されているものとは言え)、何も暴力に限らない意味での「Power」や“俺を楽しませてくれる”“小悪魔的で女豹のような”「Girls & Ladies」のことが直接的に歌われるのであり、あるいはそこに「Love」が挟まれることもあるのだが、相対的に見ればより自己本位性の高い「Love」である傾向も強く、ともすればまったくどうしようもない音楽なのかもしれない。実際、モトリー・クルーのメンバーのような振る舞いをする人間が「身近」にいたら自分はほぼ確実に嫌うだろうし、ロックンロールスター的放埓の生活や相手の意思が介在しない(と思われる)性的なものを含める快楽が好きなわけではないし追求したくも別段ない。だが、自分にとってHR/HMがたとえそんなステレオタイプな見方がすべて当てはまるような音楽であったとしても、まったく過去の音楽と感じるわけでもないし奇妙に惹かれるところもあるだろうなと感じるのは、道徳的観点から忌避される類の男性性に限らない自己本位性や、戯画化されたアティテュードや感情との距離感覚を刺激されるからなのだろうし、また、思想やメッセージだけが音楽なのではなく総体としてのものが音楽なのだ、ということからも想起されるように、音楽は素晴らしい力と危険性が同時に孕まれているという、芸術全般に通じる「魅力」がHR/HMにもあるからだと思う。

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 読み返して、最後のとか特に、モトリーやべー、の一言でも済む気がしてきた…。ちなみに、[迂闊]は新しいカテゴリで、迂闊なことを書いているな、と自分が感じた時に使います。おやすみなさい。