はてな幸福論 ―D・A・T・E 日記書いていいじゃない―

前回までのあらすじ(読まないとわからない、というわけでもありませんのでぜんぜん読む必要はないです…):http://d.hatena.ne.jp/farrah/20041126

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●幸せ日記について 第1章「幸せ日記の効用と逆照射」
 今日は先日僕の心を捕らえ縛り付けた「本当に幸せなら日記を書かない」概念についてさらに考察し、ひどく凡庸な結末へ向かって突き進んでみます! むろんこれは、「日記を書いている」僕の心を安定させるためです。有り体に言うと日記書いてたっていいじゃない…という目的へ向かってヒール マイ 心、セイヴ ザ 自分の魂を目指した日記というか…いやだって、そりゃ自分はやっぱり一番かわいいですし…というわけで、お肉スキスキ、自分スキスキ、ジャストミートでかっ飛ばす所存です!ハレルヤ! さて、前回「本当に幸せなら日記を書かない」という話を聞いて動揺するのは、世間一般的な「幸せのイメージ」に「日記を書く事」が組み込まれていないと感じられるからではないか?と考えてみました。これは支配的な「幸せイメージ」、およびそれを「勝手に」造り出すシステムに対する反発ですね…例えば流行に乗らないと「ユーは遅れている」などと言われてしまう時に感じる反発に近いような気がします。では、「日記を書く事」が世間的に認められれば、「あいつは日記を書いてるから幸せ」「日記を書いてるアイツは幸せでありファッキンクール」などと言われるようになれば、僕らは、いや僕は心の平穏を得られるのでしょうか…?どうなんでしょうか…。


「本当に幸せなら日記を書かない」概念に対峙するものとして、「幸せのために日記をつける」という方法論があります。主に女性誌…an anなどで啓蒙的記事として時折提唱されているその方法は、たいてい以下のような文脈を付与されていると考えられます。

1:日記をつけることにより自己を知る(自己分析的アプローチ。敵を知り己を知れば百戦危うからずの実践?)
2:よかったことを日記につけることにより幸運を呼び込む、テンションを上げる(呪術的アプローチ、あるいは、ドラクエの戦闘勝利記録データベースを確認することにより得られる、安寧にも似た気分の獲得が目的のゲーム的アプローチ? 例えば、この方法論に拠っていると推測できる、「よかったことをメインに書き込む日記本」が売られている。その本に対するamazonのレビューによれば、「いろんな成功本に書いてあるエッセンスを見事にとりいれている(?)。心理効果も働き、続ければ確実にポジティブな人間になりそうです。いいことを考えるクセがつくと、いいことが起きるというのも、だまされたと思ってチャレンジするには安い投資ではないでしょうか?」とのこと)


 言うまでもなく、上記の文脈は同時に、幸せ日記を書く事の効用と目されているもの、でもあると思いますが、an anなどのメジャー誌においてこれら効用が提唱される場合、メディアは大衆を操作している!的な観点に立てば、「日記を書く行為を幸せのカテゴリー(幸せイメージ)の中へと組み込もうとする大規模な試み」とも(無理矢理)取る事が出来ます。つまりan anは、「日記を書くと幸せになれるという提案」→「それじゃあってんで書くと幸せになる」→「幸せ維持あるいはさらなる幸せのために書き続ける」→「幸せだから日記を書いているという状態になる」という転換を、かなり大きな規模で企図/提唱している、のかも…と考える事ができるというわけです!日記を書いている自分(たち)が幸せなら、日記って素晴らしいってことに…?やった!日記を書く事が幸せの条件に入るかもしれない…僕はここにいてもいいのかもしれない…僕はここにいてもいいんだ!おめでとう!ありがとう!


 と、今しがた上記で僕が披露した、an anの「日記を書く事の提唱に関して意図するところ」の受け取り方はいっけんCOOLであり、といっても机の角などに数回頭を打ち付ければいっけんCOOLだと思えるようになるかも…という程度のCOOLだとは思うのですが…いくら日記を書く事が推奨されていても、それをこのように受け取ってしまうのは危険性を伴います。世間一般的な「幸せのイメージ」に「日記を書く事」が組み込まれていないことと、幸せイメージを勝手に造り出すシステムが不満、というスタート地点に立っていたはずなのに、日記を書く事が幸せのカテゴリーに組み込まれて(認められて)喜ぶという行為は、憎んでいたはずのシステムへの加担という側面を逆照射してしまうからです!やっべ、おそろしい!ぬか喜びきけん!幸せのイメージに組み込まれることを望む事、また、システムに対する反発として「日記を書いてるけど俺は幸せ」などと思う事は、そもそもが幸せシステムの隷属下にあることを露呈してしまうのではないでしょうか…。

 それゆえ、日記を書く事が幸せのイメージに組み込まれていないと不平を言うのはまるで、例えば資本主義というシステムを受け入れたく無いのにシステムの中で生きざるを得ないという二律背反的な構造を反復するかのようです。なので、個人的には、そこからちょっと離れるためにも、原則的に自由闊達な精神の発露としての日記を書けばいい、幸せな事を書いてもいいしダークな事を書いてもいい、周りがどうとかじゃなくて、書きたいから書くという素朴かつ理想論的な方法論でもEE JUMP!EE JUMP!と思います!


 ただし、僕が書いているような形式の日記には、書きたいから書くというだけではなく「書くからには多くの人に読んでもらいたい(書くからには「おもしろく」書きたい)」という承認欲求も同時に存在するようです。承認されるのは「幸せ」だと感じるのです。というか正直僕もそういう部分はかなりあります!ごめんなさい! 多くの人に読んでもらいたい…それが幸せ…ここにおいて、再び日記と幸せの関係は予断を許さないものになってくると思うのです…!! わあ、どうなるんだろう!
 というわけで第2章に続きます。えーマジ、まだ続くの?もういいよ?というか、いや続くのもやぶさかではないのですが、ドラクエや仕事や面倒くさいなどののっぴきならない諸事情により、続かない可能性も大いにあることをどうか御承知ください。また、こんな長くてどうしようもない文章をうっかり読んだせいで心の傷を負った、という方がありましたら、誠に申し訳ありません…。たぶんもう続きませんので…というか、続くにしてもひっそり書きます…。眠い…。

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今日の日記に関する反省:またいい加減な事を書いてしまった…全体的に話をすげー誇張し過ぎ。あと長くてわけわかんないのでたぶん誰も読まない。