5月5日に結婚式を挙げます

 それでも、今日もタイトルと乖離した中身のないどうでもいいことを書きますよ!


 むろん日記に対するアクセスとは突き詰めれば、かつて、あさくらだいすけが所属したアクセスとその名と印象において奇妙な一致を見せる、必然としての過剰性と滑稽さを孕む「愛」というものの、あるいは「憎悪」というものの一幕(もしくはそれらそのもの)なのであり、そして言うまでもなくトラックバックとはより明示的な、より可視化された恋文ないし果たし状である。ところでブログ以前から存在する文中リンクとブログ以降のトラックバックの相違は、そのリンクが届いたか否かの確認の際に顕著にあらわれる。前者には特に受信者側においてアクセス解析の装備がなされていること、もしくは送信者/受信者が互いのサイトに目を通していることが前提とされるゆえ、その愛(あるいはそれと表裏一体であるかのような憎悪)の発露が慎ましやかなものだとならざるを得ないということに尽きるのかもしれない。だが、もちろん、トラックバックは可視化された恋文という性質が実装段階で要請されているので、その機能的に相手に一応「伝わっている」ことが明示されてしまうのであるから、それは前時代的な文中リンクが抱える愛の不可能性の感覚、そして不可能性から逆説的に生じる快楽を減衰せしめている。と語るのはやはり旧来の日記者的な感覚のいささかナイーヴな吐露に過ぎず、またアナクロにも過ぎようか。

 トラックバックの場合、有用性を強調するあまり愛の不可能性を隠蔽する傾向を強くし、より愛の送信を「労働」の領域に近付くように使用することの可能性が機能的に実現されているので、確かに比較的容易にあからさまな「Love☆安売り」すら可能だ。それをサポートするように働く堅牢なシステムが、トラックバックには備わっているのである(これに関しては例えば、数々のサイトに無差別的に、半ばそれが彼/彼女が従事する労働であるかのような印象すら受ける勢いで愛(トラックバック)を送信するゆえ、周囲から疎まれているサイト/人を見よ)。その愛の世界を包み込むインターネットやサーバーなどに障害がなければ、トラックバックを介した手紙は、届いた結果の顛末はともあれ、受信されること自体の保証性は高まっている。また、明示的であるがゆえの愛の過剰性や暴力性は文中リンク以上にさえ時になりうるだろう。それゆえか、文中リンク支持者、というより、さらに大枠でいえばブログに違和感を表明する者、もっと狭い範囲で言ってしまえば旧来的な価値観を持つ日記者・テキストサイター・HTML至上主義者たちは、愛の奥ゆかしさという物語の消滅を嘆くのだ。

 しかし、文中リンクだろうとトラックバックだろうと、その使用意図は大差ないと言い切れるのではないのか?どちらを使うにせよ、たとえば無差別的な愛の送信は現実世界の似姿として嘆かれ、疎まれることがあるのにはほとんどかわりがないとも言えるのに。またトラックバックを送ったにせよ、現実世界と同じく送られた愛は望むような形ではやはり届かないかもしれないのに。そしてむしろ、アクセスのまたは文中リンクの姿を採った愛をより切実に希求していたのは、どちらかといえば旧来の日記者のほうではなかったか? それでは何故、彼らはトラックバックやキーワードなど、「所与性高く愛をサポートする機能」に違和感を感じるのだろうか。

 それに関して、彼らの主張はこう要約し得るだろう。すなわち、

1、愛(例:アクセス・文中リンク)の意味は根源的に決定不能である
2、しかし愛(例:アクセス・文中リンクによる)は意味を切望するものであるから、決定不能性を抑圧する(トラックバックによる意味の可視化/機能化・はてなキーワードによる繋がリの可視化/機能化など)
3、決定不能性を尊重するようなやりかたでリンクを貼ることが可能であり、また望ましい(つまりより「奥ゆかしさ」を感じさせるリンクが望ましい。そのためには、ブログは「機能的」に過ぎる)

というものだ。ちなみに上記の主張は、日記とかブログとかとは全然関係のない本を読んだらジェフリー・キプニスというひとが言ってたらしいことが載っていたので、ステキだなと思ってテキストエディタに書き写したものをちょっと改変して使ってしまったというか、単にうわっつらだけパクって無理矢理インターネットの話にあてはめてみただけである。なのでホントに僕の恥ずかしさやそれっぽい権威を持ち出す痛々しさやてきとうさが浮き彫りにされるだけなのだが、旧来の日記者はかかる主張をもって自らの正当性を確認し、トラックバックに代表されるブログ的要素を介したアクセスによる繋がりを心中で指弾するのだろう。しかし、その裏には、彼らのルサンチマン的感情、「俺らは苦労したのになんであんなに簡単にブログは『繋がれる』んじゃボケ」、が隠されている、とも言えてしまうかもしれない。っていうか、その、僕はそうですしね!しょうじきブログによる繋がりとかちょううらやましいもんね。はてなダイアリーも素晴らしいよね、だからはてな大好きなんだけど、でも僕ははてなでブログろうがHTMLで日記書こうが人との繋がりがなんか薄いのよね、ちくしょう! みたいな感じで、要するに、自分の人格上の問題をハイパー棚上げしつつ言えば、ぼくのサイトに対する文中リンクとかトラックバックとかは誠になにとぞやっぱり大変に欲しすぎるのであり、皆さんよろ〜。ってことが言いたかったのでした。ごめんなさい。

 まあそれはいいとして(ここから本日の日記が始まりますよ)、うらやましいと言えば、先日、妻と仕事帰りに待ち合わせて一緒に帰る機会があったんですけど、妻が待ち合わせ場所に佇んでいたところ男性にナンパされた、ということなのです。となると、夫としてはやはり思うところもあって、ああ、なんていうか、うーん、やだなあ、みたいな世界に取り残されたようなしょんぼり気分を味わうと共に、まあ俺の妻だしね、そりゃナンパもされるよね、はは、みたいな歪んだ優越感にもひたったりするわけで、要するにその優越感を自慢しようかなと思ってしょぼい日記を今書いているわけですが、それはそれとして、ナンパうらやましいなあとか思ってしまいますよね!っつうか僕ナンパされたトキねーっすよ。なんで妻だけ。ずりいよまじで。って、それはちょっと、いち、にー、さーん嫉妬!という具合でオザケンめいた勢いで愚痴も言いたくなるというものですよ。いや、あのね、いくら俺に魅力がないからってそりゃないでしょう、神様社会様。こう、ナンパされてさあ、満面の笑みでもってこう、「いや、おれ妻がいるんでー、無理。あははー」とか断ったりしたいじゃん?いやそんなんされたトキないからわかんないし、実際されたら困るっていうか場合によっちゃ正直ただうぜーなあって思うだけなのかもしれないけど、しかしひょっとしたらそういう、「袖にする」的なことってすげー気持ちいいんじゃねえの?ともうっかり思わないでもないわけで…。だって僕は今までの人生ひっくるめて、基本的に「袖にされる」側でしかなかったんでほんとにその辺わかんないんですけど、でも、ねえ神様! だからまあ皆さんも僕を見かけた際には男女問いませんのでアズスーンアズポッシブルな勢いでナンパしてください。ってまあ、そんな機会はまず永劫こないだろうからこそ日記に書けるんですけどね。

 あ、とはいえこれ妻に読まれたら怒られるよなあ。いやいやだいじょうぶ、日記と実生活は違うからねー、ぶっちゃけナンパされてもついていきません(私信)! いやまあそもそもそういう類いの行動をする気がないし、僕は実際問題割とモテないからその心配はちょっと寂しいけどかなり杞憂とも言えてしまうし、それに僕がこのさき心変わりをするような対象はいないでしょう。と、ある意味傲慢にもそう言い放てるだけの相手と僕は結婚したつもりなんですが、ちなみにGW中に結婚式を挙げて新婚旅行に行ってくるのでしばらく更新できないと思います!それでは〜。