The boy with the thorn in his side

近況:働けど働けどなお我が暮らし楽にならざるからなんでだろうと思ってじっと手を見てみるとまあびっくり、おやおや人面相がハロー!なんつって手を振ってるよさよならといった按配のお茶目な幻視が発生しそうなほどやはり労働は厳しく僕を打擲しているのであり、平たく言うと僕は疲れている。だいたい、ほんとのこと知りたいだけなのにゴールデンウィークはもう終わったりしてその結果何が起こったかというとあれだお金がなくなった。というか切実にお金が欲しい。ギブミー世界を革命する力。
 このままでお金が手に入らなければ、果たして自分は永遠があるという城に辿り着けるのだろうか、それかやはり世界の果てに辿り着いてしまうのだろうか、などと思考回路はショート寸前、頭脳戦艦はガルといった具合に思念はシェイクされブギーな胸騒ぎも自動的な泡のように浮かび上がるわけであるが、ちなみに、妻曰く永遠があるという城すら今日では数千万で買えるらしく、そのあたり妙になんとも現実的なのが気絶するほど悩ましい現世なのである。っていうか例えば親の世代とか意味わからないですよね。普通にマンションとか家とか買ってるし、だって、あれってすげえ高くない? ほんとお金ってどこから沸いてくるのかしら。もしかして僕だけがお金の湧く泉の在り処を知らないだけなの? と思いながら、余った旅行お土産のスモークサーモンを毎日食べている5月の現状。そんなわけでおかねをください。

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●5月9日の日記
パディントン 〜 ロンドンブリッジ 〜 タワーブリッジ
river_of_london
 お世話になったホテルを、受付のお兄さんにサンキューとか言いつつチェックアウトし、重い荷物を抱えながらタワーブリッジのあたりを散策。荷物が異様に重いので難儀するも、テムズ河のほとりの散歩道などを歩く。ドイツあたりからと思われる旅行者や修学旅行生の姿がけっこう目に付く。観光感と、日常感がまじっていい感じ。なんというか、僕は、そこまで観光観光した旅行というのはそこまで好きではなくて、むしろ街の雰囲気なんかを感じるのが好きなのだけれど、その意味でも、今回の旅行はとても良かったと思う。ってなわけでグッバイロンドン! 空港へと向かう。


ヒースロー空港
 そしてピカデリーラインに乗り一路空港へと向かったのだが、空港近くの駅から乗ってきた黒人のおばさん二人が大変卑猥な話を大声でしていて車内の注目を集めていた。僕は最初、なんかファックがどうしたとかファッキンどうこうとか男がどうしたとかおもしろおかしく言ってるみたいだから、あーこの人たちきっと何かちょっとアレなこと言ってるんだろうなあ、程度に思っていたのだが、後で僕よりずっと英語を解する妻に聞いてみると、おおむね、「なんかさー、拙者こないだムラムラきちゃってガマンできずにヤッったんだけどすぐ終わっちゃってさーやっぱ昼間ヤるのは駄目ですから残念!」みたいなことを延々と言っていたらしい。卑猥な話を聞かされ車内にいる白人のおばさんの顔がひきつってたのが印象的で、ああどの国でもこういう光景はあるのだなあ、と思った(以上、グローバルな体験でした!)

 空港では非常に微妙、を余裕で通り越して、もはやまずい域に達しているスパゲッティを食べたりして、出発の時間まで待つ。妻の食べたラザニアは普通にそれなりの味だったのに、スパゲッティになると途端に味が落ちるのはどういうことか、と疑念が渦巻いたが、真相は不明だった。


・飛行機
 帰りの飛行機では、ちゃんと眠れたりしたため、行きの飛行機よりもずっと時間が短く感じた。NMEのモッズ特集のムック本など、イギリスで買った本を読んだり、映画を観たりして過ごす。観た映画は『クレイマー、クレイマー』だったが、とてもよかったというか、脳の親子関係部位とかを刺激されなんか泣いてしまった。なんだこれ…。中学生くらいの時もちらっと見た映画なんだけど、その時は流し見だったこともありそんなでもなかったんだけどなあ。年を取ったということだろうか…。

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■『クレイマー、クレイマー』感想
Kramer vs. Kramer
 例えば「家庭」という概念。それは無批判に賞賛または無批判に批判されたりもよくしてるよなあって思うんですけど、そんな文字っ面のこともまあ重要として、それより重要なのは、当事者が(特に他人の)感情をないがしろにして実体の薄い概念や理念としての「家庭」に固執し、その概念の遵守、あるいはそれに対する表層的な反動に終始する限り、割とどうにもならねえんじゃねえの?ってのが僕の考えだったりする。何故って、確かにそりゃあ自分の人生などそうそうお高いものではないのだけれど、概念や理念に固執した結果はえてして他人の目からするとしょぼい、安い物語が待っているんだし、だったらわざわざ自分から手垢にまみれて戯画化された物語へと突っ込んでゆく必要もないでしょう?ということです。要するに、もっと柔軟に考えればいいじゃん、というか、例えば問題が家庭ならば「家庭とは(これか、あれか)であるべきだ」というものではない、こうしたら相手がどう思うかとか、じゃあどうするのかとか、自分の固執している点は関係性において妥当なのかとか、そういうのを考えたほうがいいんじゃないだろかというか…正しいはず / 間違いなはずの二分法から派生する諍いなんかが欲しいんじゃなくて…愛はもっとそうじゃなくて…みたいな…。

 なんて、いかにも上から見下ろしたような偉そうでかつステレオタイプな事を言いつつも、そういうことを言ってる僕みたいな奴に限って結局はありがちな陥穽にハマってしまうのがTHE人間のステレオタイプというものなのかもしれないのだから、やはり『クレイマー、クレイマー』のような言ってしまえばそれこそステレオタイプに大いに心動かされたりもするのです。というか、心動かされました。まあ、僕自身が単に、こういった人生のすれ違い的な話が好きだ、というのが大きいのですけれども。なんというか、そりゃ「人生のすれ違い」みたいなのもステレオタイプなのかもしれないけれど、しかし「ステレオタイプ自体」に対する愛がある、と感じられるものはとても好きなのです。

 だいたい、なんだかんだ言って、子供のかわいさや母親・父親のことを寂しく思う仕草や、子供を抱えて走るダスティン・ホフマンの姿や、父子二人での生活が軌道に乗り愛しい日常になったことをうまく示しているような「フレンチ・トースト」のシーン――そのシーンはほとんど、映像が台所に切り替わり、卵がスムーズに割られたその頃にはこの先何が起こるかわかってしまうような、予定調和なものですらあるのですけど――には涙を誘われたりなんとまあ幸福な感じがしたりするし、話の初めからすれ違って、歩み寄りはするけれど元には戻れない元・クレイマー夫妻からは優しさまじりの切なさを感じます。クレイマー元夫が当初抱えていた「仕事での成功」と「家庭の『成功』」が等号で結ばれるのではないかと言わんばかりのほとんど愚かしいまでの性質だとか、クレイマー元妻が取った――「自分探し」っぽい行動だとかはもう力なく笑うしかない(けど、身につまされて笑えない!)――見方によってはいささか浅はかさを感じてしまう行動、そして彼彼女の子供が抱える一番シンプルな思い、それぞれが考える「家庭」…というより、互いにこうあって欲しかったという思惑は実際、ちぐはぐで表層的にほろ苦い結末を迎えますが、しかし、どこかで見たような・聞いたようなしょんぼりする物語にはまってゆきつつも、そこで事態に自らきちんと「向き合う」ことがよく描かれている。ように思って、この映画は切なくて愛らしい感じがしました。


 いや、とかなんとか言ってるけれど、いい映画だなあと思った一番大きい要素は、結婚したての自分、という僕自らの境遇と、映画の内容がちょっとシンクロしてるから、共感、みたいなものがあるからかな、と思います。それが「正しい」映画の見方かどうかはまったくわからない、というか、それを言ってしまうとあんまり人様に見せられる感想ではなくなるのかもしれませんが、結局そういうことなんだろうなあ。だって子供が泣くシーンとかはずるいですよ!

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というわけで、無事成田空港に降り立つ。成田からは高速バスで新宿まで出て、ヒュー・グラントは日本の俳優で言うと誰か?とか、そういう話ばかりしつつ、それで家に帰った。非常に疲れていたのだが、そしていろいろあったのだが、やっぱり、新婚旅行は楽しかったです。