ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序について


やっぱり僕ら、エヴァンゲリオンが大好きだ!


……ってなわけで、碇ユイと同い年であるところの僕らは10年前に胸を痛めてエヴァンゲリオン劇場版なんて観てたわけだけど10年後にはヱヴァンゲリヲン劇場版なんて観ちゃってました!っていう按配で、公開初日である昨日、エヴァ映画を、観たかったので妻と観てきました。


結論を先に言うと、いやー、とてもおもしろかった。まず今回感心したのは、技術の進歩ってのは物語をそれこそ補完するのかな、ってことで、まあそういうことを言うと、絵がすげかったー、10年の差ってすげー!って話で終始しがちだけど、単にそれだけじゃなくて、良かったのは絵とかひっくるめて全体的にプラスの意味でわかりやすさが増したことです。例えば、ああ使徒ってすげー強くてアイツらと戦ったらマジで死ぬ可能性高いんだな、ってことが非常にわかりやすくなってたこととか。いや、それでかいと思うんですよ。TV版〜旧劇場版通して、シンジはぐじぐじする子だけど、お前情けねーなそこでエヴァ乗れよ!みたいなところもあったわけでしょう?それこそ、TVアニメ版だとまずは「ロボットアニメ」ってフィルターで僕らは観てたわけだから、単純に「何故そこで乗らない!」って違和感もやっぱあったわけだし。


けど、今回の劇場版観たらそりゃエヴァ乗りたがらないよね!ってのが、映像技術的なこととあいまって、より腑に落ちるようにできているのが感心ポイントだったんです。だって乗ったら痛い目にあうしちょう死にそうなんだもん!そりゃ乗りたがらねえよ!怖いから!


例えば他のアニメの例としてわかりやすいからガンダムを出すと、ガンダムなんかは戦争やってたりして人もバタバタ死んでくんだけど、主人公はガンダムに乗ること自体をあまり嫌がらないような感じがするし、人が死ぬのもぶっちゃけ見てる限りはそんなに痛そうじゃない。ていうかたいてい描写的に一撃即死か、即死じゃなくてもキメゼリフを言って見せ場を作って死んでゆく、みたいな、まああまり、死を前にして恐怖でどうにかなる、みたいなことはない。ところがそもそもエヴァは、特に今回のエヴァはその辺がよりわかりやすいけど、エヴァの性能もあってパイロットが一撃では死なないところがポイント。苦痛が長引くし、その描写も必然的に数多く入れられる。あと、エントリープラグの閉塞感。エヴァの中が一番安全なんだけど、エヴァの中はすごくしんどくもなるんです、っていうモラトリアムの構造にも似た逆説も思い出させてくれたわけで。


いや、これって他のアニメがダメで新エヴァには「恐怖感」があったからゼッタイに優れている、って話では勿論無いし、ガンダムとかそれ以外のアニメに搭乗を嫌がる描写が無いとか死の恐怖の描写がないんじゃなくてむしろあるんだけど、今回のエヴァ使徒の襲来とか戦闘に付随する死の恐ろしさ(トウジやケンスケらをはじめ、一般市民の不安も)がよく描けてたなー、って。


で、その現実感が増した怯えだとか恐れを「その上で乗り越える」的描写がわかりやすく、かつ、しっかりあり、現実という物語、あるいは物語という現実から「逃げちゃダメ」だってことに説得力が増していることが個人的には良かったなと思うのです。庵野秀明ってたぶん、ほぼ一貫してそういうことを言ってる作品しか作れない人だと思うんですけど、今回のエヴァは彼が「今」造ることが出来る「オトナになる物語」を全うしようとしているな、と感じました。それと、10年経ってアンタも俺もなんかちょっとオトナになってるんじゃない?って感じるという同窓会的楽しさはそりゃありましたね。


それで、こっからは作品自体に直接関係ある話じゃないかもですけど、個人的には、今って10年前より確実にヤバい時代だと思うんですね。90年代後半って、つまりエヴァ放映当時って、大雑把に言ってオウム以降&バブル経済崩壊以降の社会状況がありつつ、例えばミスチルが「何が起こっても変じゃない そんな時代」に「覚悟は出来てる」と歌いながらもすげえビビってることを隠さなかったような、あるいはレディオヘッド「OKコンピューター」が醸し出していた、希薄な幽霊の脅威に静かにのた打ち回ってるような空気、そういった「正体のない怖さ」に対する怯えやもがきや足掻きの発露があった。それが95年以降の状況だったのではないか?と個人的には思っていて、そういうのが僕は好きだったし、社会のどこかに、また自分のどこかに必要なバッファだと今でも思ってます。だけど今はなんていうか、それを通り抜けて、というか麻痺して、自意識的な怯えは足掻きはかっこよくなくなって、平面化し、より希薄に、何もかもが当たり前に、もう怖くない、ってことでやってるけど、バッファがないんですよ、なんか。それがヤバいと思うんです。僕もアナタもみんなも大好きざっくり二分法で言うと、エヴァ的なもの・90年代的なものは確かに病理の発露であり社会的に治療すべきものだったかもしれないんですけど、今は表向き治療されているだけで内にはいろいろまだ抱えてるはずなのに、その内なる病理を許容するスペースがないというか「織り込み済みの異常値含めての正常値」以外を認めない社会になっているのでは?と個人的に感じてしまうわけです。


で、なんとなく、しかし確実に事態がバッファ無く進んでいる中、実際に例えば9.11のようないきなり実体化されたショックが出てくると、もうバッファがないもんだから戦争という急激なヒステリーでしか反応できてない、みたいなのが僕は怖いんですね。そんな状況下に、ある種のショックは確かに「危険」で「怖い」し「痛い」し「死ぬ」可能性があるってことを改めてわかりやすくダイレクトにぶつけてきて、「正体のない怖さ」を可能な限り実体化した上で、しかしそれをヒステリー的にではなく乗り越えましょうよ、ってやってきた(ように見える)今回のエヴァは良かったな、続きが楽しみだな、ってことなんです。今回ついていた、“YOU ARE (NOT) ALONE”ってサブタイトルも、それを現す表現も、かなりベタなんだけれど、逃げてない感じで良いなあ、と。


もちろん、それ以外にも映画として諸々の事情でわかりやすくする必要があったのだろうなと思います。そもそも10年経ったからまた劇場版やりましょう、なんて、当然ビジネス的な理由のほうが圧倒的に強いわけだろうし、パチとかスロとかで当たったから制作費が出て、さらにそれらの新規市場を拡大するためにも新ネタをやれよ、という以外の理由は見当たらないわけですが、まあビジネス的にはそれでやるとして、じゃあ制作者としてそん中でやれることは何?どうやったら今伝わる?何が最適?ってのをちゃんと考えてるっぽいのもいいな、と思います。それこそ技術だとか予算の制約とかがあった上でですが、「何か」を描写する必然性があると制作が判断したら作品内にその「何か」の描写が発生します、だけど、それがユーザーを楽しませる(そしてお金を気持ちよく払ってもらう)という大目的を満たしているか満たさないかの違いがありますね。で、大目的をストレートに満たしながら表現を盛り込んでくるという、「様々な事情の中、制作物で金を稼ぐ」ことに対する姿勢を今回感じ、まあ要はちゃんと仕事してるなっていう、共感を覚えたりしました。


ただし確かに、その「今表現したいこと」が「エヴァンゲリオンという過去の作品の焼き直し」という保守的な形式を取らざるを得なかったところには、庵野監督が抱える固有の問題と共に、それとはまた別種の、2007年の日本が抱える根の深いヤバさを感じますが……。過去の物語で現在のある物語を肯定的に補完するしかない、みたいな……。


あと、映画観てて一番驚いたのは、いつの間にか自分たちがミサトさんより年上になってしまったという事実に気付いたときでした!まさにいきなり実体化されたショックですよ!おしまい!

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ってなわけで感想終わりなんですが、そういや仮に現実の歴史とエヴァの歴史がある程度地続きだと考えるとするなら、おもしろいことになって、ユイやゲンドウなんかは90年代後半の、奇しくもエヴァが代表したような空気感を通り抜けてきているはずで、特にゲンドウなんてその当時ですらオトナになりきれなかったオトナ(30歳以上で大学院生あるいは大学関係の研究者で“厭な男”で酒飲んで喧嘩とかするんだけど“とても可愛い人”)だったのに、それがセカンドインパクトとユイの死で余計オトナになれなくなっちゃって、人類巻き込んでいろいろやって、あげく「まごころを君に」の最後のときは「だってユイに会いたいしシンジが怖かったから……」ってマジで子供かよ!って思ったりしたわけですが、よくよく考えてみるとゲンドウは80年代とか90年代に青春や青年期を過ごし2000年代に社会的地位を得たけどきちんと大人になれなかった人のモデルとしても考えられるわけで、それって自分も可能性無いないわけじゃないから恐ろしい……。あれは早くオトナにならないとこうなるよ、ってことですよね?いやはや。